『狐の足跡』は歴史書として依拠できるものではない
実のところ、拙著でも検討した通り、今日では『狐の足跡』には、恣意的引用や歪曲があり、とうてい歴史書として依拠できるものではないということがあきらかになっている。ところが、日本のロンメルに関するミリタリー雑誌の記事や通俗的な読み物では、なお『狐の足跡』に依拠した記述が少なくない。
たとえば、ある日本のライターの著作では、ロンメルの未亡人ルチー=マリアと息子のマンフレートが『狐の足跡』に異論を唱えたり、抗議していない以上、資料として信頼できるとされている。強弁であり、事実の歪曲でもある。
まず、ルチー=マリアは1971年に死去しているのだから、1977年に出版された『狐の足跡』をチェックすることは不可能だったのである。そもそも、アーヴィング自身、同書のなかで「ロンメル夫人とは生前、二回会って話をしたことがある」と記し、『狐の足跡』刊行以前に彼女が死去したことを示しているのだ。マンフレートもまた、西ドイツ(当時)の週刊誌『デア・シュピーゲル』1978年8月28日号(ネット上で閲覧できる)で、ロンメルはヒトラー暗殺計画を知らなかったとしたアーヴィングの主張に異議を唱えている。
このライターは、ドイツ語も理解するし、現代の研究にはネットの活用が不可欠だと称しているので、こうした不都合な事実を知らなかった、調べられなかったとする言い訳は通用しまい。
擬史に対して獅子奮迅していた呉座勇一氏の姿勢
いずれにせよ、この『狐の足跡』に多くを頼ったロンメル伝は、アーヴィングによる事実の歪曲を、そのまま日本に広めることになった。『狐の足跡』の「嘘」を逐一指摘した研究書が、当時すでにドイツで出版されていたのだが、それらを参照した形跡はない。何故、そこまでして、アーヴィングを擁護しなければならなかったのか、不可解なことではあるけれども、あるいは、一種の「歴史修正主義」に与(くみ)するがゆえのことだったのかもしれない。
むろん、これは極端な例ではあろう。しかし、アカデミシャンが「狭義の軍事史」に手を出さないがために、サブカルチャーでのみ扱われ、結果として、ロンメル、ひいてはドイツ軍事史に関するゆがんだ理解が広められているという傾向を象徴していると思われる。
拙著『「砂漠の狐」ロンメル』を執筆した理由のなかには、かかる潮流に一石を投じたいということがあった。もっとも、本書に着手する以前は、この種の毎月のように発表される言説に対処するのは、賽(さい)の河原の石積みといった感があり、しょせんは徒労ではないかという「敗北主義」に傾いていたことは否(いな)めない。
しかし、前出の呉座氏が、筆者よりずっと年若であるにもかかわらず、擬史に対して獅子奮迅されているのをみて、背中を押されたしだいだ。ロンメルやドイツ軍事史といった、限られた分野であるとはいえ、拙著が、より正確な歴史の理解にいくばくなりと貢献することができるのなら、筆者としては、何よりの喜びである。
現代史家
1961年東京生まれ。立教大学大学院博士後期課程単位取得退学。DAAD(ドイツ学術交流会)奨学生としてボン大学に留学。千葉大学その他の非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、国立昭和館運営専門委員等を経て、著述業。2016年より陸上自衛隊幹部学校(現陸上自衛隊教育訓練研究本部)講師。著書多数。