デュアラーのすすめ

都会と田舎を行き来するデュアラーが増えているのはなぜか考えてみましょう。最近は、東京一極集中に加え、共働きが増えたせいで、皆都心の便利なところに住むようになっています。そうすると、都会生活の息苦しさから逃れるべく、田舎での生活に憧れるようになるのです。かといって、仕事の関係で移住するわけにもいかないため、週末だけとか、長期休みの時などに田舎に住むという二重生活を始めることになるのです。

あるいは、働き方改革もあって、テレワークが広がり、週に何回かは田舎に住むという人も出てきています。2つも家を持つのは大変そうに思うかもしれませんが、安くで古民家を借りたり、シェアハウスをしたりと、意外とお金のかからない方法が増えています。

それならいっそのこと移住してしまえばいいようなものですが、田舎に住むというのは、都会生活があるからこそ楽しめるという部分もあるのです。ここがデュアラーのポイントです。結局私もそうなのだと思います。多い時は毎週末といっていいほど頻繁に都会に行く機会があるため、普段は田舎でのライフスタイルを楽しめているのです。

とどまりたいのに、とどまれない

これは思想的にも説明がつきます。先ほど構造主義の話をしましたが、奇しくもその構造主義の二項対立を批判して登場したポスト構造主義がそれです。その代表格といってもいいのがフランスの哲学者ジャック・デリダです。

デリダは、物事が差異で成り立っていると唱えました。この世に都会と田舎の2種類が存在するのは、両者に違いがあるからです。そして違いというものは、常に生み出されていることを指摘したのです。これは人間の本能であるようにも思います。あるものを手に入れると、別のものが欲しくなる。だからどっちかではいけないのです。

都会でも田舎でもないデュアル生活。いわばこれは「住まう」という概念の脱構築だといってもいいでしょう。脱構築もまたデリダの用語なのですが、簡単にいうと、既存の価値を揺るがし、構築し直すといった意味です。住まうというのは、本来どこか1カ所にとどまることをいうはずです。ところがデュアラーの場合、どこかにとどまるのではなく、そこから「抜け出す」ことにこそ住まうことの意味があると感じているのですから。

私たちはどこかにとどまりたいくせに、とどまった瞬間、そこから抜け出したくなる願望を抱くのです。その願望を実現したのがデュアラーではないかと思うのです。