被曝したマグロは場外駐車場の地下3mに埋められた

乗組員は病院に運ばれ、そして、乗組員23人全員が被曝していることが判明。半年後には無線長の久保山愛吉さんが死亡する。日本は広島、長崎の原爆投下に続いて、再び、核の犠牲者を出したのである。

帰港時点では、日本政府は船の被曝の事実を把握しておらず、騒動は、帰港の翌日、読売新聞がスクープにしたことに始まる。その時すでに漁獲物は水揚げされてしまった後で、首都圏や関西など全国10数都府県へと搬送された。魚種は主にマグロで、一部、サメなどを含めると、156尾に上った。

築地市場へと入荷されてきたマグロやサメの放射線量を計測すると、基準値を大きく超過していることが判明。市場はパニックに陥った。セリが中断し、被曝したマグロ3匹とサメ28匹が隔離された。被曝マグロは直ちに、場外駐車場の地下3mに埋められることになった。

ちなみに、ビキニ環礁での水爆実験で被災したのは、第五福竜丸1隻だけではない。当時の厚生省が認めた被災船は実に856隻にも上るが、被害の実態はよくわかっていない。全国で捨てられたマグロは457トン、すしに換算して250万人分にも及ぶという。当時は築地界隈だけでなく、全国で被曝マグロの風評被害が起きる大騒動となったのである。

事件を風化させぬためマグロの墓が作られたが……

だが、そんな記憶も時の経過とともに薄れていく。数年もたてば築地市場に埋められたマグロの存在はおろか、第五福竜丸事件に関心を寄せる人は少なくなってしまった。

第五福竜丸はその後、除染され東京水産大学の練習船として改造されたが、1967年に廃船に。しばらく夢の島に打ち捨てられていたが、保存運動が起こり、1976年に第五福竜丸展示館に展示されることになった。

一方で、東京都は1996年、都営大江戸線築地駅の出入り口設置工事に伴い、マグロの骨の発掘調査を実施することを発表する。当時の資料を元に埋められたとおぼしき場所を掘り起こしたが、一片の骨も出てこなかった。

このままでは、第五福竜丸事件は風化してしまう――。

危機感を募らせたのが元乗組員の大石又七さんであった。大石さんは自らが発起人となり、マグロの墓(塚)をつくるための十円募金を開始したのが1997年のこと。募金は2万2000人約300万円が集まり、2000年4月にマグロ塚が建立された。重さ2トンの伊予青石(数々の名庭にも景石として使われている青または緑の岩石)でできたマグロ塚は、まるで太平洋の荒波のように力強く波打っている。揮毫は大石さんによるものだ。

塚には署名、募金してくれた人々の名簿がタイムカプセルとして「埋葬」されている。そして、100年ごとにカプセルを開けることが約束された。

食卓や寿司店に上がることのなかった被曝マグロや、第五福竜丸乗組員、そして核のない世界を望むすべての人々の魂が、このマグロ塚には込められているのである。

「都立 第五福竜丸展示館」に置かれたマグロ塚