仏像の概念を根底から覆したアンドロイド観音「マインダー」
当然のことではあるが、お寺と仏像(偶像)はセットである。日本にある寺院は、およそ7万7000カ寺。仏像が存在しない寺は、まず存在しない。それどころか、寺には複数体の仏像が納められているのが通例だ。
私が副住職を務める寺は、檀家100軒余りの泡沫寺院である。それでも仏像の数は大小15体ほどある。日本における仏像の総数については調査したものがないが、おそらく100万体を優に超えるであろう。
なぜなら、三十三間堂の千体仏など、1カ寺で1000体を超える仏像数を擁する寺院はごまんとあるからだ。神社にも仏像(神像)が納められているケースがある。京都では室町時代以降、地蔵信仰が広がり、いまでも辻々に地蔵が残っていてその数は1万体以上とも。江戸時代には現在の数倍の仏像が存在したと思われるが、明治維新時の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく※)によって多くが毀損、消滅してしまった。
※明治維新の神仏分離によって起こった仏教破壊運動。詳細は鵜飼秀徳『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(文春新書)を参照ください。
仏像とは、一言で言えば、仏を現した造形物であり、仏は衆生を現世や来世ですくってくれる“ありがたい”存在である。そこで、「“ありがたさ”とは何か、説明せよ」と質問を投げかける人がいるかもしれない。仏像がありがたいのは、人々が長年にわたって仏餉(ぶっしょう、仏に供える米飯)を供え、手を合わせ、祈りをささげた対象であるからに他ならない。
長い歴史にわたって、衆生の悲喜こもごもを引き受けてくださるのが仏(像)である。だから、造られたばかりの仏像よりも、何百年と経過した仏像のほうが、よりありがたいと感じられるのは、当然とも言える。
「開発者は大きなタブーを犯したのではないか」
だが、伝統的な仏像の概念を根底から覆す存在がこのほど、京都に出現した。2月末に高台寺(東山区)に登場したアンドロイド観音「マインダー」である。高台寺は総事業費1億円(うちマインダーの開発費は2500万円)を投じたという。
私は先日、マインダーを拝みに高台寺を訪れた。そして、衝撃を受け、少なからず混乱した。このアンドロイド観音。はたして「仏像」と言えるのか。信仰の対象になり得るのか。私は高台寺や開発者は大きなタブーを犯したのではないか、とさえ一瞬、考えてしまったほどだ。
今回はアンドロイドの仏像を題材にし、「仏像と信仰との関係」について語りたいと思う。最初に述べるが、この問いの結論はない。