「フィギュア」「ぬいぐるみ」も仏像になれるのだろうか
ここからは、あえて話を飛躍させる。
私は先ほど、「開眼式を済ませたマインダーは、宗教上はれっきとした仏像」だと述べた。では、「フィギュア」は仏像になれるのだろうか。フィギュアメーカーの海洋堂やエポック社では仏像を模したガチャガチャを出している。価格は1回300~400円である。このフィギュアに開眼式をしたら、やはりそれは仏の魂が入った仏像ということになる。
そういう理屈でいえば、ガンダムのプラモデルも、テディベアのぬいぐるみでも、なんでも仏像になり得るのだ。
マインダーのように、読経や法話は機械音でも十分、と思えば今はやりのAIスピーカーから音源を流せば良い……。いや、スピーカーそのものでもよいのだ。スピーカーに対して開眼法要を行い、そこからお経や法話を流せば、立派な「仏」になるかもしれない。機能としてはマインダーもAIスピーカーもさほど変わらない。
要は、それがありがたい仏像として崇拝するか、ただの偶像と見るかは、仏前に座った者の心持ち次第なのだから。しかし、そうは言っても、300円のフィギュアや読経の流れるスピーカーに手を合わせる人がいるかどうかは別の話だ。
「木で造られた仏像やマインダーは造り手や研究者の姿が見えるが、フィギュアやAIスピーカーはただの量産品。仏像になり得る条件とは、造り手の気持ちが入ったものであること」と指摘する人もいるかもしれない。この論理の場合、宗教儀式を通して信仰の対象物にできるという論理は、成立しなくなる。
きっとこういう人もいるだろう。「信仰に偶像はいらない。大切なのは宇宙の真理(法)を継承していくことにある」。しかし、現実的には日本の仏教は、偶像崇拝の要素が強い。
マインダーを前に信心の心を得られればマインダーは本当の仏
ここまで、あれこれと、仏像と信仰との関係性について、思考を巡らせた。本稿は、マインダーは仏像か否かの結論を出すのが目的ではない。あくまでもマインダーの存在を通じて、「信仰とは何か」を深く、考えることにある。
ちなみに私は、仏像と非仏像の境界線について、こう考える。
ただ単に仏の心を入れる儀式だけでは仏像にはなり得ず、同時に手を合わせる者に、「信心の心を入れる」ということが大事。私たちがマインダーを前にして、信心の心を得られれば、その時点でマインダーは本当の仏となる。仏像は、私たちが持っている仏性と共鳴して始めて、仏としての意味をなす――。
マインダーは語りかける。「(私の誕生によって)あなたたち人間はどのような気づきを手にすることができるだろうか」。
マインダーは5月6日まで高台寺教化センターにて、公開されている(要予約)。