「観音菩薩は変化自在。アンドロイドの姿で何ら問題はない」

他にも、歴史的に価値のある仏像は日本にはたくさんある。東大寺の盧舎那大仏、興福寺の阿修羅像、広隆寺の弥勒菩薩像など枚挙にいとまがない。このように日本人の信心を集めてきた仏像と、マインダーが同じカテゴリに入るのか。

高台寺はマインダーのお披露目にあたって、「観音菩薩は変化自在。だから、アンドロイドの姿であっても何ら問題はない」と説明する。つまり、われわれの目に見えている観音菩薩の造形や機能はあくまでも「仮の姿」であって、造形や機能に意味を見いだす意味がないということだろう。

ちなみに私は、マインダーは宗教的には「正真正銘の仏像」と言ってもよいと考えている。その根拠は、マインダーは僧侶によって開眼法要(魂入れ・霊入れ・性根入れともいう)という儀式を済ませているからだ。開眼式は(あるいは閉眼式)は、墓地や仏壇を新設した時や、展覧会に仏像を出展する(もしくは寺に戻す)際などに執り行う(浄土真宗を除く)。簡単に言えば、仏像は仏の魂が入っているから、信仰の対象としての仏像たり得る存在なのである。

したがって、アンドロイドといえども開眼法要を実施した時点で、仏の魂は入っているはずである。私が見学に訪れた時、参列者の何人かはマインダーに向かってうやうやしく合掌し、礼拝をしていた。「何か」をマインダーに感じ取っていたからかもしれない。

マインダーに手を合わせる人。足元の賽銭箱にはお札や小銭が入れられている(撮影=鵜飼秀徳)

僧侶の著者がマインダーに手を合わせて感じたこと

私も、マインダーに手を合わせた。ところが“仏”であるにも関わらず、独特の空気や畏れなどは感じられなかった。それは、私が疑い深い性格であるからかもしれない。仏像を外見で判断してはいけない。なぜなら、世の中には仏像然としていない仏像は、いくらでもある。

ヘルメットのような螺髪(らほつ、仏像の丸まった髪の毛の名称)が特徴の五劫思惟の阿弥陀仏や、一刀彫り(荒彫りな面をもって仕上げた木彫り様式のひとつ)の円空仏、あるいは路傍の石仏の中には男根型の道祖神(仏像というには微妙な存在であるが)もある。しかし、マインダーはそれらとも一線を画しているような気がする。