旧築地市場と第五福竜丸事件とマグロ
旧築地市場が昨年秋、83年間の歴史に幕を閉じた。
現在、旧市場はフェンスで覆われ、解体工事が本格的に始まっている。2020年の東京オリンピック・パラリンピックの車両基地として整備される予定で、今後1年間をかけて、155棟の建造物が撤去される見通しだ。
その後の活用については、国際会議場や食のテーマパークとして整備される案が浮上。いずれにせよ、フェンスが外された時には、築地一帯の風景を一変させていることだろう。
この築地市場跡地利用において、少し、気がかりなことがある。あの「マグロ」はどうなるのだろうか、と。
今日3月1日は、あの痛ましい事件からちょうど65年目の節目に当たる。はるか太平洋上のビキニ環礁で実施された水爆実験で、マグロ延縄漁船・第五福竜丸が被曝した事件のことである。実は、第五福竜丸事件にまつわる「遺構」が、旧市場の消滅によって、なくなってしまいそうなのだ。
65年前の1954年3月1日にマグロ漁船は被曝した
まず、第五福竜丸事件の概要を振り返ってみよう。
第二次世界大戦後、米ソは冷戦時代を迎え、核開発にしのぎを削っていた。米国は太平洋でキャッスル作戦という6度にわたる水爆実験を計画。うち、1954年にビキニ環礁で最初に行われた水爆実験の威力は、米軍が想定していた規模をはるかに超える凄まじいもので、広範囲の海が核で汚染された。
水爆実験が実施されたその時、第五福竜丸は爆心地から160km東方沖で操業中であった。その時、西の水平線が閃光できらめき、海が鳴動したという。しばらくして、死の灰が船に落ちてきた。デッキに足跡がつくほど積もり、乗組員は灰を頭からかぶったという。
第五福竜丸の乗組員は、被曝したこと以上に、米軍の機密に触れたことへの恐怖が募り、抹殺されることを恐れて、焼津港に向けて全速前進で逃げ帰った。帰路の途中、乗組員に発熱や嘔吐、髪が抜けるなどの急性放射線障害の症状が次々と起きる。焼津港に接岸したのは水爆実験から2週間後であった。