「すばらしさ」を求める時代の終わり
自己実現とは何か。心の病とどう向き合うか。悩む我が子をどうするか。皇室の抱えている悩みは、いつ誰が抱えてもおかしくない悩みばかりだ。
皇室なのだ、特別な存在なのだ、美しくあれ。そういう論理はもう通用しないことを、目の当たりにしてきたのが平成だった。あとは理解し、さらには納得する。それが国民にできるかどうか。
これについての解は、平成を生きる人々からある程度出てきているように思う。
たとえば脳科学者の茂木健一郎さんは、「婦人公論」の「プリンセスたちに、なぜ注目が集まっているのか」(2015年11月10日号)に登場、「皇室の存続」について語っていた。
だから、美智子さまはすばらしいが、雅子さまが同じようである必要はない。眞子さまも佳子さまも愛子さまも、「自分らしく」あればそれでいい。そう結論していた。
「合わせ鏡」としての皇室
同じような意見は、もっと若い憲法学者・木村草太さんも語っていた。
木村さんは、同世代の人々の天皇への関心が高くない中、それでも天皇が国民から敬意を得られていることに、「陛下のたゆまぬ努力」を感じているという(「文藝春秋」2017年1月号「生前退位考――昭和を知らない世代の天皇観」)。
そこで木村さんが示したのは、「すばらしい天皇像を国民は求め続けるべきではない」という認識だ。その理由は、新しい天皇が即位したときには新しい天皇のあり方を尊重すべきだから、と木村さんは言う。
茂木さんと木村さんに共通するのは、「らしさ」を認めようという思いではないだろうか。皇室はこうあるべきという「らしさ」ではなく、その人らしさを認める。そこから新しい皇室像が生まれ、存続へとつながる。そんなシンプルな道筋が見えてくる。
平成は多分、「普通に」生きようとする皇室の構成員たちが、もがき苦しむ姿を見せた時代だった。
人のありようは、時代と無関係ではない。皇室の構成員は、時代のありようを見せてくれる。見えていない後ろ姿を見せてくれる、「合わせ鏡」としての皇室。それは、時代への「問題提起」と言い換えてもいいだろう。
そういう意味で、皇室は「特別な存在」だ。
それを引き受ける。その覚悟をする。そういう時代だと思う。
コラムニスト
1961年生まれ。83年朝日新聞社に入社し、記者に。宇都宮支局、学芸部を経て、「アエラ」、経済部、「週刊朝日」に所属。「週刊朝日」副編集長、「アエラ」編集長代理を経て、書籍編集部で部長を務め、2011年、朝日新聞社を退社。シニア女性誌「いきいき(現「ハルメク」)」編集長となる。17年に株式会社ハルメクを退社し、フリーランスで各種メディアに寄稿している。