▼エピソード1:<日露戦争>ロシア兵626名を救助した上村彦之丞の生き様

「武士の情け」という概念は、武士道が確立した江戸時代以降の価値観といわれるが、上杉謙信の美談とされる「敵に塩を送る」にしても、日本人には伝統的に根付いた感覚かもしれない。たとえば、以下のような例でも分かる。

明治37年(1904)8月、日露戦争において、蔚山(ウルサン)沖海戦があった。ロシアのウラジオ艦隊と上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)が率いる第二艦隊が激しい撃ち合いを展開した海戦だ。

激しい砲撃戦の末、第二艦隊は巡洋艦リューリックを撃沈、ほか2隻を大破させる。その2カ月前、ウラジオ艦隊は日本の輸送船3隻を撃沈した憎々しい相手だったが、見事にリベンジした。

しかし、沈みながらも砲撃を止めないロシア巡洋艦「リューリク」の姿を上村は見過ごせなかった。「敵ながら天晴れである」と言い、海に投げ出された乗組員の救助と保護を命じたのだ。

上村は、部下たちに捕虜を虐待しないよう重ねて命じた。その後、甲板の上では負傷して横たわるロシア兵に対し、日本兵が扇子で仰いでやる光景が見られた。こうした厚遇に、救助されたロシア兵626名は、みな涙を流して喜んだという。

このエピソードは終戦後に讃えられ、「上村将軍」という軍歌になった。また軍人の鑑(かがみ)と賞賛され、海軍の教本にも載せられたという。

▼エピソード2:<太平洋戦争>英兵422名を救助した工藤俊作の心意気

それから約40年後の「太平洋戦争」でも似たようなことがあった。昭和17年(1942年)3月1日、インドネシア・スラバヤ沖海戦において、日本海軍は連合国軍の艦隊を撃破した。

2日後、駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長・工藤俊作はイギリス海軍の重巡洋艦の乗組員たちが海に大勢で漂流しているのを見て、救助を指示。敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険性もあるなかで、懸命な救助活動が開始される。

日本兵が甲板から差し出した棒に捕まったとたん、安心して急に力が抜けて沈んでいく英兵もいた。それに対し、海に飛び込んでまで救助にあたった日本兵の姿もあった……。

こうした救助活動は3時間にわたって行われ、「雷」の乗員らは自分たちの倍におよぶ422名もの英兵を引きあげた。シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルク、ビール、ビスケットがふるまわれた。

工藤は彼らに対し「諸君は勇敢に戦った。今諸君は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と英語でスピーチしたという。工藤たち乗組員は、日露戦争時の上村彦之丞の行いを学んでいたに違いない。