「子どもを抱えて自宅で仕事をこなせる人」はいるか?
要するに、総務省がテレワークとして念頭に置いているのは、実質的には「在宅勤務」なのだ。実際、総務省が作成した資料には、「テレワーク(在宅勤務)」と表記されたものがいくつもある。ICTは、時間と場所を不問にするゆえに、在宅でも仕事ができ、子どもがいる女性も働ける、そう言いたいわけだ。在宅勤務を説明した文章に添えられたイラストは、まさにそれを示している。
しかし、子どもを抱えながら自宅で仕事をこなせる人は、一体どれだけいるだろう。テレワーク(在宅勤務)で、収入が増えたり、やりがいを見出したり、出勤が困難な障害を持つ人が勤労のチャンスを得る可能性は、むろん否定しない。だが、それを除けば、在宅勤務が、ただそれだけでワーク・ライフ・バランスの向上につながるとは到底思えないのだ。
ワークとライフのバランスを取ることは、ワークとライフを適切に切り離すことではないのか? 働く時間とそれ以外の生活時間を、意志の力だけで、截然と切り分けることはそんなに容易い事ではない。職場と自宅が同じ場所なら、なおさら時間を切り分けることは難しいのではなかろうか。
いつでもどこでも仕事にアクセス「しない」工夫が必要
私には、場所を分けることは、ワークとライフを適切に切り離すという点では、それなりに有効な手段であるように思われる。仕事に必要なものは職場だけに置いておく。何でもかんでもクラウドを利用して、いつでもどこでも仕事にアクセスできるように「しない」工夫、それは「環境」の力を借りるということだ。
地方活性化やエネルギー消費の抑制、通勤の負担からの解放は、とても意味のあることだ。このような情報社会に生きる人間にとって、QOL(quality of life)、つまり、生活の質を上げることは、時間と場所を取り戻すことと同義だ。
都心の高級マンションに住むようになるよりも、地方の緑の中を自転車で“仕事場”まで通うことができるだけで、私たちのQOLは、格段に向上するように思う。そうした“仕事場”が、コワーキングスペースのように、互いに少しは顔見知りで、ときに話をしたり、ときに飲みに行ったりする程度の人たちのいる場所なら、孤独に苛まれることも、人間関係に疲れ果てることもなく、充実した勤務になるのではないだろうか。
総務省のプランが魅力的ではないのは、20年前の理想を未だに引きずって、「環境」の大切さに目を向けていないからだ。意志の力やデバイスの機能だけで、ワーク・ライフ・バランスを回復できるなら、もうとっくに、みなが充実した生活を送れているはずだ。そうでないからには、足りないものがあるのだ。
TWSであれ、デジタル・ウェルビーイングであれ、テレワークであれ、それらを実質的に意味のあるものにするには、ICTから意志や機能によって離れるのではなく、「環境」の力を借りながら適切に、適度に離れられる工夫が重要だ。
つながり過ぎた対象から少し離れてQOLを上げるのは、水泳で息継ぎするのと変わらない。水に潜り過ぎれば溺れ、離れすぎては泳ぐことはままならない。上手に泳いで前に進むには、水面近くに居続けねばならないのである。だからこそ、私たちには、「環境」という浮き輪が必要なのだ。
政治社会学者
1977年生まれ。博士(社会学)。首都大学東京客員研究員。現代位相研究所・首席研究員ほか。朝日カルチャーセンター講師。専門は、政治社会学・批判的社会理論。近著に『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社新書)がある。