「工場の何百人単位の従業員を自動車会社さんに引き受けてもらうようにお願いに行きました。また、すでに子会社で受け入れる余地がなかった管理職の転籍先を開拓するために資本系列外の会社も訪問しました。セカンドキャリア支援の仕組みをつくり、会社に引導を渡された管理職の人を説得し、移籍先の企業とのマッチングに努めました。嫌な仕事がどんどん回ってきましたが、さまざまな中小企業の経営者にお会いするなど勉強になりました」

写真=iStock.com/Jacob Ammentorp Lund

その実績を買われて45歳のときに経営構造改革推進本部の部長に昇格した。年収は1200万円。主な担当は全社的な人事・総務部門の業務革新という名の合理化だった。事業所や子会社ごとに違う出張費や日当の統一化、給与明細書のメール配信といった細かい作業から、管理部門の人員縮小などを手がけた。

「事業所ごとに労働組合があり、既得権が失われることから抵抗されました。身内の人事・総務部門からも立本があれを削ろうとしている、ふざけるなと批判が飛び出るなど、敵呼ばわりされたこともあります。嫌われ者の役回りでしたが、少しでも経営が改善すればと必死でしたし、やりがいはありました」

プライベートでは30歳で結婚し、31歳で都内にマンションを購入し、2人の子供にも恵まれた。妻も仕事を持ち、自身も出世コースに乗り、順風満帆だったが、50歳を前に退職を決意した。

「じつは次の仕事は東京以外の赴任地になるだろうと予測していました。仕事を持つ妻と2人で子育てしてきましたが、子供もまだ小学生でしたし、転勤になれば家族が離ればなれになる。悩んだ末に転職することにしました」

出世を棒に振ってまでの退職には葛藤もあっただろうが、自身の力が外部で通用するのか試してみたいという思いもあった。退職後、人事コンサルティング会社のコンサル業務に携わり、2年後に経営・人事コンサルタントとして独立した。

「会社時代に社員のセカンドキャリア支援に携わり、大企業から中小企業に転職すると、頭では理解していても想像していたこととは違うことに遭遇します。たとえ専門性を持っていたとしても、アイデアや提言するにしても大企業病に侵された上から目線の物言いは通用しないことを肝に銘じていました。それから少なくとも5年間は出身企業の息のかかった企業から仕事をもらうことはやめようと決意し、ゼロから顧問先を開拓しました」

徐々に顧問先企業も増えていく。その背景には単に人事業務にとどまらず、業務改革や経営革新など幅広い業務の経験も役立った。コンサルだけではなく企業の監査役の仕事を引き受けるなど、収入も前職よりは劣るが800万~900万円の年収を稼げるようになった。