意図を誤解しても秩序が成立する3つの不思議

第1に、会話を交わす中で、2人にとって意図しない現実が生まれている。お父さんは、別に「出かけたくない」と思って、雨の話を切り出したわけではない。お母さんは、出かけるつもりでいたのだが、お父さんの言葉を聞いて、「お父さんは出かけたくないのではないか」と配慮する。そして、お父さんの気持ちを打診する。お父さんは、その打診を、お母さんの行きたくない気持ちの表れだと思って受け入れる。2人とも、話を交わす以前は「出かけたくない」という意図はまったくなかったのだ。しかし、現実は、出かけないことになった。両者にとって、当初まったく意図しなかった現実が生成したわけである。

第2。メッセージの意味は、話し手の意図によって決まらずに、受け手の解釈によって決まる。お父さんは「雨が降ってきた」と言ったが、お父さんの意図としては、たんに天気が変わったことを口に出しただけ。だが、お母さんは、その発話を聞いて、お父さんの「出かけたくないという意図」だと察した。お父さんの意図とは関係なく、お母さんはお父さんの意図をそう解釈した。それを受けて、お父さんは、同じように、お母さんの本当の意図がどこにあったかとは別に、お父さんは、それがお母さんの意図だと解釈した。そして、さらに、お母さんは、お父さんの「そうしようか」の言葉を聞いて、自分の解釈が誤りではなかったことを追認した。

いずれの発話も、その発話の受け手の解釈によって意味が定まる。お互いの意図を見通すことができる神様の立場でこの2人の会話を見ていると、ことごとく相手の本当の意図を誤解した、誤解の連鎖であることがわかるはずだ。コミュニケーションにおいては、自分の言ったことを自分(の意図)で根拠づけることはできない。コミュニケーションにおいては、発話者がその発話の意味の根拠を決めるのではなく、受け手の承認の中で決まるほかない。

第3。この会話の中から、お互いに気遣いをもった大人の姿が浮かび上がってくる。このことは、全然、違った状況を想定するとわかりやすい。お父さんが「雨が降ってきた」と言ったときに、お母さんが、居丈高に「出かけたくないのなら出かけたくないと、ハッキリ言いなさいよ」と答えたとしよう。それに応えて、お父さんも、「そんなことはないよ。じゃあ、出かけよう」とちょっとアタマにきて答えるかもしれない。この場合は、いわば両者にとって最初の意図どおりの現実が生まれたことになる。だが、先ほどの「相手を思いやる人格」は影を潜めて、とげとげしい人格が生まれてしまっている。つまり、先の穏やかな会話のときとは違った「私」と「あなた」が、この会話の中で生まれている。

われわれは、何をどう努力しても相手の意図を見通すことができない。言い換えると、互いの意図が伝わり合って現実が生まれたのか、互いに誤解し合って現実が生まれたのかを知ることができるのは、その現実を天上から見ている神様以外にはない。一種誤解の連鎖ともいえるこうしたコミュニケーションのプロセスは、日常生活において普通に見られるものだ。そもそも違った宇宙をもつ他者とのコミュニケーションにおいて、一般的に見られるものなのだ。

発話の意味を決めるのは、発話者の意図ではなく応答者の応答であること。そして、その応答者による応答も、その応答を聞くさらなる応答者の応答によってしか、意味を得ることはできないこと。つまり、そのつどのコミュニケーションの中で何が起きているかは、そのつどのコミュニケーションの進行の中でしか決まらないこと。このことが意味しているのは、コミュニケーションとは、個人の心理や内面には還元されない、次々に新しい展開を可能にする(つまり、創発的な)社会的プロセスだということである。