業務純益と呼ぶ本業の利益が1千億円を切ろうとするなか、1千億円の元手で200億円くらいの利益を上げたい。そんなイメージで、97年度に500億円の投資から始めた。すると、1年目から100億円規模のプラスとなる。翌年夏、投資の実行部隊としてキャピタルマーケット部をつくり、部長に就いた。当時、もう1つ進めていたのが、「住友銀行の証券業務をどうすべきか」の戦略策定で、キャピタルマーケット部でその答えを実施するはずでもあった。だが、友好関係にあった大和証券が経営難に遭遇し、連携の交渉役が飛び込んでくる。

ヘッジファンドへの投資に、集中できなくなった。でも、グロブナーの姿勢に揺らぎはなく、投資はプラスが続く。いまも三井住友銀行は運用を託し、同社の運用規模は約5兆円と数十倍になった。そして「全戦全勝はない」との原点を、ずっと、共有している。

「聖人執一以靜」(聖人は一を執りて以て靜かなり)――誰もが師と仰ぐような人なら、1つの主義や信念を守り、やたらに表に出さず、静かな態度をとっているべきだ、との意味だ。中国の古典『韓非子』にある言葉で、ヘッジファンドの選定でも、反対だらけの銀行内の説得でも、「安定的に利益を上げる」との原点からぶれなかった久保流は、この教えと重なる。

ロンドンで学んだ「証券化」の勘所

1953年9月、鹿児島県加世田市(現・南さつま市)に生まれる。実家は農家で、両親と兄、祖父母の6人家族。父は終戦まで海軍で長崎や佐世保にいたが、戦後は神戸の製鉄工場で働き、年に1度しか帰郷しない。田畑は、祖父母と母が手がけていた。

県立加世田高校から京都大学法学部へ進み、ユースホステル部に入って北アルプスや霧島連山などを踏破。就職は、曲がったことが嫌いで、勧善懲悪の考えが強く、検事を目指す。だが、自信があった司法試験に失敗。翌年に受け直そうと思ったが、父が病に倒れて迷う。試験に受かっていた国家公務員になる道もあったが、何げなく受けた住友銀行の試験で面接した課長にひかれ、答えを出す。

76年4月に入社し、大阪市の本店営業部の預金係へ配属された。仕事は単純で物足りなかったが、指導官だった先輩が国際部門出身で、格好よく、国際畑を進みたいとの思いが強まっていく。希望は4年目に実現し、東京・大手町にあった国際企画部へ異動した。ところが、海外情報のまとめ役で、やはり物足りない。さらに経済企画庁(現・内閣府)へ出向し、2年間、また海外調査が続く。「人事とは、自分が思うようには進まないものだ」と、覚悟を決めた。