マズローの思想を表すものとして著名なのは、右の図にも掲げた「欲求五段階説」である。また、歴史上の人物など精神的に充実していると見られる人を調査・分析して、彼らに共通する普遍的な14の共通要素を抽出した。このような探求の末に、マズローは「人間は変わりうる」ことを明らかにしたのである。
マズローは50年代のアメリカ社会を念頭に置き、主著『人間性の心理学』の中で次のように述べた。
「現代の究極の病理は『価値の喪失』である。それは人類史上どんな時代よりも危機的な状態である。このような状態に対して人間は何かできることがあるはずだ」
経済的には豊かになったが、人々が働く目標を失い、犯罪や少年の非行、とりわけアルコール中毒や麻薬中毒が蔓延する社会に警鐘を鳴らしたのだ。これは現代の日本をはじめとする先進工業国にひとしく当てはまる警句であろう。
マズローのいう「価値の喪失」とは、責任感や使命感の欠如を意味する。
2008年秋のリーマン・ショックを引き金として世界同時不況が発生した。日本も例外ではいられず、あわてふためいた企業は派遣労働者を手始めに多くの勤労者から職を奪った。株価を上げるために人減らしを進めるといった安易な経営は、それ以前から横行している。これこそ、企業経営から「価値の喪失」が起きている証拠である。
マズローは書いている。
「人を働かせずにいることは、どんなに仕組まれた拷問よりも残酷なことである」(『人間性の心理学』)
では、単純に職を与えて働かせればいいのかというと、そうではない。マズローは次のように考えた。
「責任ある行動は報われる」(同書)
つまり、「働かされる」のではなく、自ら責任を負って自主的に「働く」ことが大切だというのである。
冒頭で紹介した部品メーカーの話を思い出してほしい。彼らのスタンスは「賃金のために働いている」ということだ。そのため「ある程度は気に入らないことも我慢しなければならない」と考えている。
しかし、これでは職場生活で充実感を得ることはできない。したがって家庭をふくめた人生全般においても、幸福感を味わえないだろう。働く者が充実感・幸福感を持っていなければ、品質や生産性も上がらない。
このような充実感・幸福感を求める心理を、マズローは「自己実現欲求」と呼んだ。
※すべて雑誌掲載当時