東京社説は後半で「今回の問題で浮かび上がったのは、いまだ暴力が横行する大相撲界の古い体質であり、運営母体である理事会の亀裂だ」と書き、最後に「伝統の上にあぐらをかかず、根底から改革する決断と実行を求めたい」と訴える。まったくその通りだと思う。
「貴乃花親方の異様なまでに頑なな言動」
「貴乃花処分へ」というテーマに「敵対的な姿勢が混迷を深めた」との見出しを付けたのが、昨年12月29日付の読売新聞の社説である。
その冒頭で「被害者側の敵対的な姿勢の責任を厳しく問う、異例の事態である。組織内部の深刻な軋轢を象徴している」と指摘する。この指摘は理解できる。
だが、読売社説は「解任決議に至ったのは、貴乃花親方の異様なまでに頑なな言動を到底、看過できない、と判断したためだろう」と書き、事実上、相撲協会側の立場から貴乃花親方に“負け”を告げている。
分かりにくい書き方だ。納得がいかない。事件の真相に迫ろうとした書き手の心が伝わってこない。これだから社説は「おもしろくない」と非難されるのである。
力士の意識改革でどうにかなる問題か
さらに読売社説はこうも書く。
「評議員会で解任が決まっても、貴乃花親方は、初場所後の理事選には立候補できるという。協会内のいざこざが、果たして沈静化するのか、見通せない」
「対立が繰り返されれば、ファンの目は一層厳しくなる。相撲協会のガバナンス(統治能力)の確立には、なお時間が必要だ」
社会常識の通じない角界にガバナンスを求めるのはかなりの時間がかかるのは当然だ。「問題を沈静化させない」などと書いているところに読売社説の問題があると思う。
なぜ、読売社説は東京社説のように「暴力が横行する大相撲界の古い体質や、運営母体の理事会の亀裂を改善すべきだ」と書けないのか。
最後に読売社説は次のように主張しているが、これも分かりにくい。
「何より大切なのは、力士一人一人の意識改革である。どのような理由があっても、暴力を振るえば引退に直結する。そのことを肝に銘じてもらいたい」
どうして角界の体質改善を求めず、力士個人にだけそれを求めるのか。問題は一般常識とかけ離れた相撲の世界の体質にあるはずだ。