大相撲の横綱日馬富士が、同じモンゴル出身力士貴ノ岩への暴行を認めて引退届を出した。新聞各紙は社説で「暴力根絶」を訴える。だが、寛容さを失った相撲に魅力はあるのだろうか。ジャーナリストの沙鴎一歩氏は「一般社会の常識が通じない場所だから、相撲は愛されてきた。新聞はそうした観客の本音に向き合っていない」と指摘する――。
毎日新聞の社説(11月30日付)。見出しは「横綱・日馬富士が引退 これで落着にはできない」。

大相撲の世界に一般社会の常識は通じない

大上段にかぶって建前やきれい事ばかりを論じている。大相撲の横綱日馬富士が貴ノ岩への暴行を認めて引退届を出した事件を書いた新聞各紙の社説のことである。

そもそも相撲とは何なのだろうか。江戸時代、相撲は単なる興業だった。八百長があって当然だし、博徒の資金源にもなっていた。力士同士のけんかもあった。

それがどうだろうか。明治になって国技に祭り上げられ、力士には厳しい相撲道が求められるようになった。暴力などもっての外になった。そして寛容さを失った。

国技になったからといって力自慢同士がぶつかり合う相撲で毎回、真剣勝負を繰り返していたら大ケガが絶えない。だからいまも適当な駆け引きが必要なのである。これが大相撲の世界に一般社会の常識が通じないゆえんである。

不謹慎だと思われるかもしれないが、酒の席での多少の不祥事もよしとする寛容さがなくてはならない。相撲の歴史について知識のある人なら分かるはずだ。

社説でも「興業にすぎないからお堅いことは言わないで」と主張してもいいのではないか。

「引退は当然の流れ」と毎日

まずは11月30日付の毎日新聞の社説。見出しは「これで落着にはできない」だ。

「大相撲の横綱・日馬富士関が現役引退した。貴ノ岩関への暴行で『横綱の名に傷をつけた』と決断した」と書き出し、「横綱審議委員会は『厳しい処分が必要』との見解を示しており、日本相撲協会でも解雇が想定される状況になっていた。全力士に範を示すべき横綱の暴行であり、引退は当然の流れだろう」と暴力を真っ向から否定し、横綱日馬富士の引退を当たり前だと主張する。

次に「ただ、きのうの引退届提出にはそれぞれの思惑が透けて見える」と書き、さらに追及する姿勢を示す。

毎日社説はどう追及するつもりなのか。そう考えながら読み進むと、こんな厳しい指摘が顔を出す。

「引退だけでこの問題を決着させてはならない」

「(日本相撲)協会にとっては、現役横綱の解雇となれば、前代未聞で大相撲史に大きな汚点を残す。番付編成会議に引退届を出せば不祥事を起こした横綱の名を次の初場所の番付表に出さずに済む。横綱にとっても、解雇では支払われない退職金も引退なら受け取れる」

なるほど、こうした見方もあるのか。思わず納得してしまうから恐ろしい。

この次がさらに手厳しい。

「しかし、引退だけでこの問題を決着させてはならない」

初めに指摘した見出しはここから取ったのだ。

「日馬富士関は引退の記者会見で『礼儀がなっていないことを教えるのは先輩の義務』と弁解した。暴力に至ったのもやむなし、とも受け取れる言葉だ」

国技に祭り上げられ、力士に厳しい相撲道が求められる以上、弁解も許されないというのだ。

毎日社説は徹底して日馬富士を攻めまくる。

さらに日本相撲協会に対しても「『力士のいざこざは部屋同士で』と考えるなら暴力に対する認識が甘い」と批判する。