天才は1%のひらめきと99%の努力
しかし「天才」を育てるには、育てるための条件が必要です。エジソンが言ったように、「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」のでしょう。今、注目されている日本のスーパーヒーローたちも、厳しい練習と努力を繰り返しています。
厳しい努力は必要です。しかしエジソンはその母が彼の才能や性格を見抜いて上手に伸ばしたように、「天才」が育つには、その才を見抜いてそれを花開かせようとする働き、つまり広い意味での個性的な教育が必要です。「天才」が育つには、(1)天賦の才(可能性)を有していること、(2)それを見抜き、上手に伸ばす働きかけ、(3)本人の努力の3つが必要なのです。
日本の教育はこの3つのうち、(1)と(2)はあまりしてこないで、(3)の本人の努力だけを強いてこなかったかということです。別に「天才」だけを問題にしているのではありません。「天才」を育てる教育とは、すべての人たちの個性をも上手に伸ばせる可能性を持つ教育になりうると考えるのです。
誰もが特別な才能に恵まれていたと言ってしまえばそれまでですが、テレビなどで映し出される姿を見ていると、最近の若きヒーローたちはどこか伸び伸びとしていると感じます。親や周りの大人たちに強制的に導かれ、苦しい練習をこなしてきたという、かつての名選手たちのような歯を食いしばる必死さや悲愴さはあまり感じられない。
おそらく人一倍の努力や練習をしてきたことは間違いないでしょうが、表情はどこか涼し気です。自分の好きなことを見つけられ、それにただただ夢中になり、のめり込んできたといった嬉々とすら思える様子が伺えます。
それに、彼らは中学生にして早くも自分の人生に明確な目的を持ち始めていることも多い。
周囲の大人たちが、じっくりと没頭できる環境を彼らに用意できたことが「天才」誕生につながったと思われますが、そこで気になるのが、そうした成長過程で学校や教育がどう彼らに影響を及ぼしてきたのか。彼らにとって、学校の存在にどういう意味があったのかです。
日本の教育は平均的に伸ばすことは得意ですが、秀でた才能ある子をさらに伸ばしていくことは苦手と言われてきました。今こうしたスーパーヒーローが輩出してきたということは、日本の学校が変わったのか、それとも学校以外の教育がそれを実現してきたのかということが問われなくてはならないでしょう。