幾度もの失敗を経て、イングランドのリンカーンにある農機具メーカーのウィリアム・フォスター&カンパニー社が105馬力の試作品「リトル・ウィリー」を製作する。ダイムラー社のエンジンを搭載し、農業用トラクターとそれほど変わらない車体を装甲したものであった。さらに開発が進み、最終的に、世界初の戦車マークIが49台投入されたのは、1916年10月20日、ソンムの会戦であった。

『トラクターの世界史』(藤原辰史/中公新書)

その後、兵器産業のシュナイダー社が制作したフランスのシュナイダーCA1も、1917年4月16日のシュマン・デ・ダームの戦闘で132台投入されている。これもホルト社のトラクターをヒントにフランス陸軍大佐のジャン・エスティエンヌ(1860~1936)が発案したものであった。実際、シュナイダーCA1はホルト社のトラクターのシャーシをそのまま流用している。

戦時の運搬力もまた、馬からトラクターへ移行していく。第一次世界大戦後には軍事用トラクターがつぎつぎに開発される。たとえば、「セクシー」な小型トラクターを量産したアリス=チャルマーズ社も軍事用トラクターを生産している。

 

コードネーム「LaS」――ドイツ再軍備計画

ヴェルサイユ条約で徴兵制とともに空軍や戦車の保持を禁止されたドイツは、秘密裏に戦車を開発する策を練る。

ダイムラー・ベンツ社、クルップ社、マシーネンファブリーク・アウクスブルク・ニュルンベルク(MAN)社やヘンシェル社などの主要な軍需産業が、LaSというコードネームで戦車の開発を続けた。LaSは、 Landwirtschaftlicher Schlepper(農業用トラクター)の頭文字をとったものである。1935年3月のナチスの再軍備宣言後、わずか1年でI号戦車A型が生産されたが、それこそがLaSであった。

I号戦車は8ミリから15ミリの機銃しかもたない豆戦車だが、訓練用に使用されるほか、スペイン内戦やポーランド侵攻、対仏戦争の初期まで実戦にも投入された。続くII号戦車も、再軍備宣言以前から、LaS100というコードネームで開発され、実戦に用いられた。ただ、独ソ戦では、その後に開発されたIII号戦車とIV号戦車が主力であった。

第二次世界大戦時にはほとんどのトラクター企業が戦車開発を担うようになる。ドイツのランツ社が全トラクターの生産のうち、50%を戦車生産に切り替えたのは1943年のことであった(大島隆雄「第二次世界大戦中のドイツ自動車工業(2)」)。

また、農業機械化それ自体も、軍事的な意味合いが含まれていた形跡がある。ドイツでもっとも大きな経済学研究所である景気研究所のある研究者は、1938年に「機械が農村にもたらしたもの」として、生産力の上昇や女性の仕事負担の軽減による人口の増加と並んで、「農村新兵の国防的有用性の増大」と述べている。つまり、農業機械の操作に慣れることで、戦時にも機械化した兵器を容易に扱えるようになる、と見ている(Hans von der Decken, Die Mechanisierung in der Landwirtschaft)。つまり、トラクターと戦車の技術的同一性は、農民と兵士の機能的同一性をももたらすのである。