キャタピラー社の軍需産業化――日本人の視線

日本でもトラクターの軍事的有用性は自明であった。鐘紡ヂーゼル工業会社取締役車両部長の渡邊隆之助は、1943年に『牽引車(トラクター)』というトラクターの概説書を執筆しているが、そのなかの「大東亜建設と牽引車の意義」という箇所でつぎのように書いている。

「国防自動車科学面にクローズアップされたトラクターは、大東亜の資源開発、輸送力向上等によって平時増強作用が行なわれる」。「農地開発、増産目的上東亜的なトラクター農法は急速に実現する可能性がある」。「米、英、ソは勿論、独、伊、仏等、自動車工業力下にトラクター工業の組織を有しないものはない」

つまり、平時の農業用トラクターとは軍事利用を前提に開発すべきであり、それは、ちょうどドイツの企業がトラクター開発の名の下に戦車を秘密裏に製造していたように、自動車工業の発達している国では常識になっていると述べたのである。

さらに、渡邊はつぎのようにも述べている。「牽引車は無論第一線兵器ではないとは云え、准第一線兵器であろう。/キャタピラー会社は、大東亜戦争勃発前半年位迄他の自動車会社に倣わず、兵器車両の政策を拒んでいたが、遂いに服従して政策を初めたと云う記事が、戦前に届いた雑誌に載っていたが、聊か緊張感を覚えさせるものがある」(前掲書)。

「キャタピラー会社」とは、いうまでもなく、あのメジャーリーガーのボブ・フェラーが好んだ、履帯トラクターの老舗キャタピラー社のことにほかならない。

1942年12月8日の真珠湾奇襲に始まる「大東亜戦争」のもと、トラクター企業がこぞって戦車開発に乗り出すことは、自動車産業もトラクター産業も十分に発達していない日本にとって「緊張感」を覚えるものであったことは想像に難くない。

ソ連――転用は公然の事実

ソ連もトラクターの戦時利用に積極的であった。

1933年6月1日、第一次5ヵ年計画の一環として、南ウラル地方のチェリャビンスクに建設された「チェリャビンスク・トラクター工場」は、ソ連の重要なトラクター生産の拠点であった。同年中に、初の履帯トラクター「スターリニェツ60型」を生産した。スターリニェツとは「スターリン主義者」という意味である。独裁者の名前がトラクターに付けられたのは、世界史上でこれが最初であるが、ただ、スターリニェツ60型は、アメリカのキャタピラー60型のコピーであった。生産量は旺盛で、1940年3月までに10万台のトラクターを生産した。さらに、スターリニェツ65型がそれに置き換わっていく。四気筒のディーゼルエンジンを搭載した重さ10トンの巨大なトラクターである。

チェリャビンスク・トラクター工場は、他方で、戦車生産の拠点でもあった。しばしば「タンコグラード Tankograd」、すなわち「戦車都市」と呼ばれていたことからもわかるように、戦争中に約1万8000台の戦車を生産している。1941年にはKV-1、翌年にはT-34など、赤軍を代表する戦車もここで作られていた。

1939年のソ連映画『トラクター運転手たち』は、独ソ不可侵条約前のまだ独ソ戦の予感が漂うウクライナ農村のコルホーズが舞台である。男女のトラクター運転手たちを主人公にしたミュージカル・コメディー映画だ。監督は、戦後『白痴』(1958)、『カラマーゾフの兄弟』(1969)などのドストエフスキー作品の映画化で有名なイワン・サンドロヴィッチ・プリイェフ(1901~68)である。ここで興味深いのは、まず、トラクター運転手がトラクターに乗りながら、途中から手を離し、後ろ向きになって朗々と歌う場面である。危険と言わざるを得ない運転だが、本人は気にすることはない。

工場労働とコルホーズ労働を
われらは護り、われらが国を護る、
大砲を積む、戦車の強力な突撃
速さと絶え間ない砲撃で。
砲火の轟き、鋼鉄の輝き
戦車は怒りの行軍につく、
同志スターリンがわれらを戦場に
筆頭元師がわれらを導けば!(福元健之訳)

これはもはやトラクターの歌ではなく、戦車の歌である。

しかも、この映画では、トラクター運転手が、戦車の運転手になるように上から誘導される。コルホーズの指導者と思しき人物がトラクター運転手の女性たちの前で「トラクターは戦車だ!」と言い切る。最後のシークエンスは、スターリンの肖像がかかる結婚式会場である。トラクター運転手のカップルを祝福する場面で、同じ指導者は「ドイツを打ちのめすために」「君たちトラクター運転手は、トラクターから戦車に乗り換える」と演説を打つ。新婦が「われらの土地も、一寸として譲らない」とうたうと、「敵はあらゆるところで撃退される!/運転手が起動装置を動かすならば/森でも丘でも水辺でも……」(福元訳)と全員でうたう。どちらも二拍子で猛々しい曲調である。