94年6月、新設した台北事務所の所長となる。2年目には支店に昇格した。当時の社長が「これからは、アジアだ」と宣言し、新設したアジア事業部へ呼ばれたのがきっかけだ。その社長が台北でのセミナーに参加した際、台湾の役所から日本企業の誘致策づくりを請け負い、提案書を書かされる。中国語は知らないから、日本語で書いた。バブルの崩壊は進んでいたが、まだ元気がよかった電機・電子業界を念頭に、パソコンや電子部品の工場誘致策だった。

その後、拠点づくりにまで話が進み、白羽の矢が立った。2人で始めた事務所は20人規模になり、得難い財産となったのが、中国流ビジネスの機微に通じた点だ。台湾の実業家をたくさん知り、華僑の仕事にも縁ができたからで、次号で触れるが、日本の経営層にはそこを知らない人が多い。

執行役員だった四十代の終わりに、システムコンサルティング事業本部の副本部長になった。野村コンピュータとの合併から20年が過ぎても、幹部級の交流人事はなかった。でも、ICTの活用が広がり、コンサルが提案したことを実現するには、新しいソフトの創出やシステムの再構築が必要だ。その双方の陣容を持ち、連携できる会社は強い。「異例の異動」には、その架け橋になれ、との意味があったようだ。

それまでシステムに関与したことはなく、コンサルとは別物と思っていた。でも、これまた「天下有常然」で、自然体で臨んでみると、「あっ、これが、うちのビジネスモデルの真髄かな」と頷く。わずか1年だったが、社長就任への試験だったのかもしれない。

2016年4月、56歳で社長に就任した。

野村総合研究所 社長 此本 臣吾(このもと・しんご)
1960年、埼玉県生まれ。85年東京大学大学院工学研究科修了後、野村総合研究所に入社。台北支店長、産業コンサルティング部長などを経て、2004年執行役員コンサルティング第三事業本部長、10年常務執行役員、15年専務執行役員。16年4月より現職。
(書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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