「女性防衛大臣」というキャリアが約束するもの

みなさんご記憶の通り、日本初の女性防衛大臣は小池百合子氏だった。2007年第1次安倍内閣で久間章生氏の後任として国家安全保障問題担当内閣総理大臣補佐官から防衛大臣へ横滑りしたわけだけれど、しかし彼女は既に百戦錬磨で術にも策にも長けている。内閣改造のゴタゴタを利用して続投を辞退し、女性初防衛大臣のタイトルだけを手にして在任期間をたった2カ月足らずで巧妙に切り上げたように見えた。

ここで私の政治的な立ち位置や防衛問題の是非を一旦棚上げして考えたい。女性が防衛大臣を務めるのは、畑の性質と土質からしてそりゃ難しいに決まっている。でもうまくいけば、内閣としては国内に向けてこれ以上ない軍事・防衛分野のイメージアップ戦略となり、対外的には日本の防衛政策のソフトさやクリーンさ、バランス感覚(いろいろご意見はあると思うがここでは一旦不問で)を印象付けるアピールにもなる。シンプルに「女性政治家の政治人生」だけを考えるなら、女性閣僚として防衛大臣を勤め上げたキャリアがもたらす尊敬と信頼感は、特に海外から見たときに「莫大」だ。そのためには、成功裡、少なくともプラマイゼロに勤め上げなければならない。

2016年夏に公開された映画『シン・ゴジラ』

昨年上梓した『女子の生き様は顔に出る』(プレジデント社)で書き下ろした大ヒット映画『シン・ゴジラ』評でも触れたけれど、劇中の花森防衛大臣が女優の余貴美子さん演じる女性大臣であることが与えたドラマ的効果は、肌に粟立つものだった。花森防衛大臣のモデルは小池百合子氏と思われるが、顔のある民間人を犠牲にしてでも国防を優先させるかどうかの瀬戸際に、躊躇する総理の目の前15センチで大胆さと潔癖なほどの冷酷さを見せるのが、信条と権力を手にした女性大臣だという脚本の説得力といったらなかった。

女は、極限のシチュエーションに置かれた時、男性よりもはるかに容赦のない決断をしうる生き物である。それを思い出させられたのだった。

稲田朋美氏は、その花森防衛大臣になりうるだろうか? 以前ロイターのインタビューに「政治家になった以上、内閣総理大臣を目指さない政治家はいない」と答えた稲田氏は、その要件を満たすような、静かな凄みを湛えた女性政治家になるだろうか?

“大奥”的寵愛を受けてのし上がる女性人材の落とし穴

彼女は、それまで「強い」「優れた」「出世・活躍する」などという言葉でイメージされてきたような女性たちと違って、男性と「言葉で殴り合う」ということをしない。殴り合わない。なぜって、保守男性と親和性の高いイデオロギー畑で、意見を同じくし、逆らうことなく生きてきたからである。それこそが「パパの忠実な娘」であるということだ。

この「パパの忠実な娘」は、実のところ男性権力者に可愛がられて(見込まれて)のし上がる女性には非常に多い、むしろ王道とさえ言ってもいい女性像だったりする。最近はフランスの極右政党・国民戦線2世党首のマリーヌ・ル・ペンが代表格だが、まさに父親の財産や路線を継承したり、あるいは父親ではないにせよ、年長の男性に見込まれて取り立ててもらうことで出世し、権力を手にしていく。そう、これまで歴史的にも「女の出世」は「誰かの“寵愛”」とセットになっていることが多かったのだが、それをあえて認める人は少なかった。

この手の女性の弱点は、パトロンありきの権力者なので、「自分以外の女と連帯しにくい」点にある。“寵愛”に甘んじてキャリアを形成してしまうがゆえに、ほかの女はみなライバルでしかなく、自分以外の女の台頭や活躍を心の底では望まないのだ。いみじくも、男女共同参画基本法や女性の登用数を問答無用で一定数に引き上げる「クオータ制」の議論に関して、稲田氏は「おいおい気は確かなの? と問いたくなる」「女性の割合を上げるために能力が劣っていても登用するなどというのはクレージー以外の何ものでもない」と発言しており、職場に女性の多い風景をまずとにかく確立して全体を底上げし、女性みんなで勝つ、という発想の持ち主ではないことがわかる。