居場所がないと感じる理由

死を意識した人たちはいろいろな後悔を抱えていますが、なかでも私が残念に思うのは「病気になんかなって、自分の人生は一体何だったのだ」と後悔している人たちです。

世代や性別に関係なく、自分には生きがいがない、居場所がないと感じている人が非常に多いのです。ですが、そう感じている人が怠惰で自堕落な人生を送ってきたかといえば、そうではありません。一生懸命働いて、家庭でも自分の義務を果たしてきた人がほとんどです。それなのに自分の人生に意味が見出せないのは、いつも他人と比べているからです。

人間は、価値を確認するために何かと比較する癖がついています。ですが、人生においてそれは意味のないことです。どんな人生にも意味があるし、等しく素晴らしい。誰にでも、天から定められた使命や役割があります。それが世界中から認められるような偉業だとは限りません。誰かの父として、母としての役割もあるでしょう。つまり、「社長」「役員」などの肩書を取り払って、自分を認めることが、人生を肯定して後悔を残さないための第一歩なのです。

私はいつも患者さんに、「人生は宴会だ」とお話ししています。病気になると「茨の道だ」「不条理だ」と感じるでしょう。ですが、すべては人生という宴会の余興であり、スパイスです。そう考えれば、少しは気が楽になるのではないでしょうか。

日本は「クオリティ・オブ・デス」つまり、死の質についての議論が欧米などに比べて遅れているため、がんになったことではじめて「死」について考える人が多いようです。

死を忌むべきものとして避けるのは日本人の国民性でもあるので、一概に「いけないことだ」とは言えませんが、死とはどういうものなのか、自分がどう死んでいきたいのかが決まっていれば、いざというときに慌てずにすみます。心に余裕が生まれ、穏やかに過ごせるのです。

私はいつも、「最後の5年間が一番大切ですよ」とお話ししています。いつ死ぬかは誰にもわからないので、今日も明日も「最後の5年間」。死期が迫っているかに関係なく、「明日死んでもいい」という気持ちで生きられているかが肝心です。

過去を悔やみ、他人と比べて人生を恨み、後悔を抱えて生きるのは悲しいことです。余命宣告されても自暴自棄にならず、日々を大切にする。その姿を大切な人たちに見せることができれば、いつか誰かを勇気づける記憶としての贈り物になります。

樋野興夫
順天堂大学医学部 病理・腫瘍学教授。1954年、島根県生まれ。順天堂大学医学部病理・腫瘍学教授、医学博士。日本癌学会奨励賞、高松宮妃癌研究基金学術賞などを受賞。2008年、提唱する「がん哲学外来」を開設。新刊『「今日」という日の花を摘む』(実業之日本社)など著書多数。
(大高志帆=構成 飯田安国=写真)
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