初めての失敗は99年2月。H-IIの6号機で経験する。75年以来、29回もの連続成功記録は、このとき途絶えてしまう。第2段エンジンの停止が原因であり、衛星を離したものの予定の軌道に乗せられなかった。悪いことは続く。99年11月、H-IIは7号機も失敗してしまう。主力エンジンが予定よりも早く停止してしまい、安全上の理由で地上から電波を送り爆破させた。
前村はこのとき、第1段ロケットのエンジンを含めた系統責任者だった。ロケットからの信号がプツンと切れた瞬間、「これは地上施設の停電のせいだ」と自分にいい聞かせた。だが、ブロックハウスの蛍光灯は煌々と点いていた。失敗が決定的になったとき、周囲から注がれる視線が痛かった。
連続の失敗で、前村もチームもショックを受ける。「もう、日本でロケットはできないと目の前が真っ暗になりました」というくらいに、前村は自信を喪失した。この窮地からどう立ち直っていったのか。若い頃ならともかく、すでに48歳のベテラン技術者になっていた。
まず、外的な要因として、当時の小渕恵三首相が「宇宙開発を続ける」とすぐに談話を出す。これにより、ロケット事業が当面消えることはなくなった。
前村は「自分で立ち直るしかないのです」と話すが、それだけでもない。現実には「忙しくなったことで救われました。忙しすぎて、悩んでいる時間を私は持てなかったのです」と打ち明ける。
数日後、水深3000メートルの海底からエンジンは引き揚げられ、原因究明のため徹底して調査した。さらに、連続失敗で中止を余儀なくされた8号機の後始末に追われる一方、H-IIを改良させたH-IIAに向けての準備と、席を温める暇はなかったのだ。「2度目の失敗からH-IIAの1号機まで、1年半以上のブランクがあったのですが、アッというまでした。気がつけば私は、再び種子島に立ち、ロケットを打ち上げていた」。