群馬県に拠点を置く野菜くらぶは、有機栽培した野菜を新鮮なまま食卓に届けることを目的に設立された農産物の販売会社である。有機農業生産と食品加工を担うグループ会社のグリンリーフや契約農家から仕入れた野菜を、全国の生協やスーパーマーケット、外食産業向けに年間を通じて販売している。社長の澤浦彰治氏は、こんにゃく芋栽培から始めた父の農業を継いだ2代目。野菜に自分たちで値段をつけて販売するという試みは、どのようにして生まれ、実を結んできたのか。その軌跡をたどった。
危機のなかに成長の芽がある
――野菜くらぶは、お父様である現会長が始めたこんにゃく芋の農業生産(現グリンリーフ)を母体に、1992年、農業後継者3人で立ち上げられました。現在は澤浦社長がグリンリーフの社長も兼ねていらっしゃいます。これまでをふり返って、一番のターニングポイントは何でしたか。
【澤浦】父の代のときに経験したガット・ウルグアイラウンド(1986~1994年)と経営危機です。ウルグアイラウンドでは、牛肉とオレンジの自由化、それにコメのミニマムアクセス(最低輸入機会)が決まったのですが、それまで養豚も営んでいた私にとって、牛肉の自由化は大きな衝撃でした。これから安い牛肉が海外から入ってくれば、豚肉を食べていた人は確実に牛肉に流れる。養豚ではこの先やっていけない、やばいぞ、と。
また、88年から90年にかけて農産物の値段が暴落しました。それまではつくった農産物を農協に出荷するだけで、自分たちで値段をつけられませんでした。相場が暴落すると、借金も肥料代も払えない状態に。農家の経営が安定しないのは自分たちで値段を決められないからだと痛感し、自分たちで販路を開拓する「野菜くらぶ」を立ち上げたのです。同時期に養豚も廃業し、その資金を元手に、独自の製法によるこんにゃくの製品加工を始めました。これも商品に値段をつけるためです。
――ウルグアイラウンドと経営危機は大きな試練だったと思います。他にも危機的状況を乗り越えた経験はありますか。
【澤浦】野菜くらぶが出荷したレタスが腐っていたことがありました。するとお客さまが一言、「真空冷却できる農協じゃないと、やっぱりダメなのかな」と。それで一念発起して、真空冷却機を自社開発して導入しました。また、冷涼な気候を好むレタスは、群馬の私たちの農場では夏期の生産が不安定でした。これが原因で取引先との契約が打ち切りになったこともあります。そこで夏レタスの産地である青森や、冬でもレタス栽培ができる静岡に農場をつくり、通年で生産できる体制を整えました。
もっと最近の危機で言えば、東日本大震災での原発事故です。私たちの野菜は「有機栽培」や「特別栽培」が売りですが、放射能汚染への不安から、群馬県産というだけで出荷停止となり、売上が半減しました。有機栽培や特別栽培だけでは万全ではないと痛感し、「利便性」を打ち出した惣菜キットの生産販売を始めました。
このように、危機はところどころで経験しています。ただ、よく考えると、危機的状況のなかで次の成長の芽が生まれているものですね。危機がなかったら、いまの自分たちはなかったと思います。