遊んでもらった職人のために一念発起
社長の邦裕は東京理科大学を卒業後、豊田通商で為替ディーラーとして働いていた。だが、家業が危機に陥るのを黙って見ているわけにいかなかった。
「昔は工場の横に家があって、仕事が終わると職人たちにキャッチボールなどでよく遊んでもらったんです。みんな家族のようでした。その職人たちがだんだん減っていく。彼らのために何かできないかと思っていました。就職して4年目に外資系銀行から誘いがあり、転職も考えたのですが、父に相談すると、『うちも、もっとやっていけるかもしれないから、やらないか』と言われて、それじゃやろうかと入社しました」
ところが、2001年に入社してみると「やっていける」どころか、赤字で苦しい状況だった。トヨタ自動車の経理部門に就職していた弟の智晴に詳しく帳簿を調べてもらうと、債務超過状態だとわかった。何とか売り上げを増やさなければ倒産は確実だ。
邦裕は鋳造事業を立て直すために、まず現場で技術を学んだ。「汚れるし、暑いし、現場は好きじゃなかったけど、下働きするうちにもの作りの面白さが見えてきた」と言う邦裕は自社の技術力を活かすため、敢えて製造が難しい油圧部品を手がけて、顧客開拓に没頭した。
これが功を奏し、順調に売り上げが拡大。2007年には5億5000万円まで増えた。しかし、もう一つの柱である機械加工事業が黒字化できない。そこで、邦裕は智晴に「一緒にやらないか」と声をかけた。
「小さい頃は兄貴によくいじめられたので、またいじめられるのは嫌だと思いましたが、うれしくもありました(笑)。父や祖父や職人たちはうちのドビー機は世界一といつも言っており、私も誇りに思っていたので、その会社の元気がどんどんなくなっていくのが見ていられなかったのです。当初は外部からサポートしようと思っていましたが、誘われたことをきっかけに何とか立て直したいと思ったのです。入社してから一度も兄貴と喧嘩はしてませんよ(笑)。そんなことやっている暇もありませんでした」
と語る智晴の入社が愛知ドビーを大きく変えることになった。2007年、入社した智晴は機械加工事業の責任者として活動し始めたが、一方で現状のままではもう成長できないと感じていた。
「うちはBtoBでずっと仕事してきましたが、下請けでは親会社の意向に振り回されて限界がある。この技術を活用してBtoC、つまり最終ユーザーに自社製品を届けたいと思いました。ちょうどその頃からインターネットが普及し始めオンライン・ショッピングなら直接、お客さんとつながれる。いいものを作れば必ず買ってもらえると信じていました」
自社製品を開発しようという智晴の提案に邦裕も諸手を挙げて賛同した。それでは何を作るか。智晴は「世界一の鋳物ホーロー鍋を作れないか」と邦裕に言った。
「下請けはどんなにいいものを作っても褒めてもらえない。私は職人や工場長に自社製品を作ろうと呼びかけました。弟が言うには、鋳物ホーロー鍋はおいしく調理できるのに、ステンレスとアルミを貼り合わせた無水調理鍋が世界一だと言われている。それは、ル・クルーゼなど鋳物鍋の密閉性が悪いからだと。それで、金属と鋳物ホーロー鍋で食べ比べてみたんです。すると、鋳物の方がおいしい。それなら、うちの鋳造と精密加工技術を活かして世界にない鋳物ホーロー鍋ができるんじゃないかと盛り上がりました。しかも、当社の生産ラインでは鍋がちょうどいいサイズでした。そこで、職人にも手伝ってもらいながら、弟と私で開発を始めたのです」