同時代を生きる仲間たちへの応援歌
1人は、産経に勤める前に在籍した小さな新聞社の整理部員である。本文には「彼はいつも、印刷インキで黒く汚れた長机の片隅で、背を丸めながらひっそり朱筆をにぎっていた。記事の見出しをつけ、紙面の大組をするのが彼の仕事なのだ」とある。朝刊の締め切りが一段落すると壊れかけた椅子にあぐらをかき、焼酎を片手に語ったという。
その様子を司馬氏は「彼は、そうした会談の中で、さまざまな新聞記者術を説いた。特種(とくだね)とはいかなるものか、どう書けばすぐれた記事になるか、おおよそ、そういう類のものであったが、新聞記者道ともいうべき処世の在り方もその中に含まれていた。まるでその図は、山中で隠遁の老剣士に剣術をでも習うような観があった」と記している。
もう1人も地方版を作る目立たない記者だったが、その風貌が、戦争中に司馬が蒙古で見た商隊の隊長に似ていた。背をかがめて悠然と駱駝に乗り、痩せた顎を心もち空にむけていた。司馬氏は、長い風霜が造りあげた自然物のような顔に見惚れた。それに近い雰囲気を感じさせる老記者は「人間、おのれのペースを悟ることが肝心や」とつぶやき、その姿勢を生涯貫いた。
どうやら、執筆時30歳を超えたばかりの司馬遼太郎氏は、サラリーマンという存在に哀愁と愛情の両方を覚えていたらしい。新聞記者として警察や府庁、大学などを担当しながら、人間を観察するうちに自身の内部に醸成されたのだろう。だから、そこから紡ぎ出された文章は、同時代を生きる仲間たちへの応援歌になっている。