その後、米ビジネススクールへの留学、外資系コンサルティング会社、日本コカ・コーラを経て、プリクラの開発で知られるゲーム会社「アトラス」へ入社。経営に関わり、2001年、初めて社長に就任する。
「コンサル会社に入ったのは経営者になるための準備です。日本コカ・コーラでは購買に戻って常務まで務めました。しかし、やっぱりどこか物足りない。その後は外資系企業を渡り歩くのが王道でしょうが、私はどうしても社長をやってみたかった。数百万円以上も給料が下がりましたが、リスクを取って転職することに決めたんです。おもしろいことに、アトラスの創業者は私の経歴については全く関心がなくて、人柄を気に入ってくれたようです」
ひと言で「人柄」といっても、何時間も接しないと伝わらないケースもある。岩田氏のもうひとつの転機を支えたのは、人柄を伝える資料だった。
「3期連続で赤字だったアトラスを立て直し、親会社のタカラの常務になりました。でも、やはり社長をやりたくなった。その頃紹介されたのが、『ザ・ボディショップ』を運営するイオンの子会社のイオンフォレスト。そこでイオンの人事トップの専務さんに母校の大阪府立北野高校での講演原稿を送り、読んでもらいました。『私の履歴書』のような体裁で、仕事のエピソードを細かく書き連ねた。字数を数えたら3万字もありました」
大学卒業後から40代半ばまでの20年の自分史。たとえば、「社長賞受賞」と経歴書では5文字で記される事実が、「バイクで配達していた酒屋の店員さんと接触事故を起こし、その謝罪と容態を伺うために毎日酒屋に通う。するとある日、当初はぶっきらぼうだったご主人に『一番高い車のカタログを持っておいで』と言われた」といったエピソードなど、苦労した実体験が書かれている。
この自分史を気に入ってもらい、イオン子会社3社から社長のオファーがきた。