母が亡くなった今でも悩む

よく考えてみると、母は戦時中の集団疎開を経験し、早くに母親(私にとっての祖母)を亡くし、家族の母親代わりの人生を生きてきました。つまり、母自体、母親のロールモデルを知らずに育ったわけです。そんな母に育てられた私は常に愛情に飢えた子どもでした。母が私のことを愛していなかったわけではないと頭では理解していても、優しい言葉や母親のぬくもりに渇望していたのです。母の介護をしているうちに、母もまた寂しかったのだと思い至りました。母も誰かに「よくがんばったね、えらかったね」と言ってもらいたかったに違いありません。そう考えると母が愛おしくなりました。それでも時々憎まれ口を叩くので、私もつい感情的になったりもしましたが、でも、それまでにはなかった2人の新しい関係ができた気がしています。

母の最期は、ホスピスで夫と私たち兄弟、孫たちに囲まれて平穏でした。人生の最後までしっかりものだった母は、家で死にたいという希望もあったのですが、体調が不安定になるとその気持ちも揺れていました。母の変化する病状に私たち家族もどう対応すればいいのかわからなかった。何と言っても、腎ろうをつけた体では、危険がいっぱいだったのです。悩み抜いた末、最後は疼痛緩和もしてくれるホスピスにお世話になることにしました。医療の知識のない家族にとって、結果的にホスピスで最期を迎えられたことは幸いでした。今やホスピスは順番待ちをしなければ入れないのが実情なのですから。

母を看取った今、心の傷は癒えましたかと聞かれると、素直にハイとは答えられません。突然「母はもう死んでしまった」と底なしの喪失感を味わうこともあります。あれで良かったのだろうかと思い返すこともあります。でも、母の介護を通して、私の幼い頃からの傷の理由はわかったし、過去は変えられないけれども、母と向き合ったことで気づけたこともたくさんありました。がんという病気が、家族が互いを見つめ直せる機会をくれたように思います。

今回、私がこの本を上梓した理由は、世の中には、親との確執を抱えたまま大人になった人が、意外にも多くいるのだということを知ったからです。

たとえ親のことを愛せずに看取ってしまったとしても、自分を責めたりせず、自分はそのときのベストを尽くしたのだと認めてあげてください。それが未来の自分に向き合うことにつながっていくからです。

まだ親御さんがお元気な方は、今からでも、親御さんを理解しようと努力をすることで、いつかきっと努力が何らかの形になるときがくると思います。親子関係はそれぞれです。向き合って取り組むことこそが、一人一人にとって意味のあることだと思うのです。

川上澄江(かわかみ・すみえ)
ノンフィクションライター・翻訳者
神奈川県鎌倉市出身。上智大学卒業後、毎日新聞社、米通信社の記者を経て、90年、初の著書『新聞の秘密』の出版を機にフリーランスに。結婚してカナダに渡り、ブリティッシュコロンビア大学政治学部の修士号を取得。帰国後、ニュース番組の翻訳や企業インタビューを中心に活動。今年4月『不仲の母を介護し看取って気づいた人生でいちばん大切なこと』(マキノ出版)を出版。趣味はトライアスロン。アイアンマンディスタンスを11回完走している。
(取材・構成=田中響子)
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