もし、仲の悪かった母親ががんを宣告されたら……。『不仲の母を介護し看取って気づいた人生でいちばん大切なこと』の著者、川上澄江さんは、医師から母親の根治はないと告げられ、戸惑いながらも母親の介護をやり遂げました。「最後まで『仲の良い親子』と言い切れる関係にはなれなかったけれど、母について理解できたこともあった。それは母にとっても、また私にとっても大切なことだった」と川上さんは振り返ります。

母の病気を聞いたとき、まず自分の心配をした

母が腹膜がんで根治はしないだろうと聞いたとき、私の頭に真っ先に浮かんだのは、「仕事、どうしよう」でした。母には申し訳なかったのですが、「仕事を減らして、母と一緒に住まなければならないのだろうか」「私が母の介護をしなくてはならないのだろうか」といった自分の心配が先に立ったのです。当時、シングルマザーだった私には、大学に入学したばかりの娘がいて、家計のやりくりも一苦労。そんなときに、「また母に振り回されるのか」とやり切れない気持ちにもなったのでした。でも、咄嗟にそんなことを考える自分に「なんて薄情な娘なんだろう」とハッとしたりもしました。

川上澄江さん。ノンフィクションライター・翻訳者

私は、子どもの頃から母との折り合いが悪く、思春期になる頃には母との亀裂は相当深くなっていました。新聞社や通信社に勤務した後、結婚を機にカナダに渡り、そこで大学院を卒業。出産を経験して帰国しました。帰国後、離婚したのですが、傷心の私に母が放った言葉は「子どもの面倒を見てもらおうと思わないでよ」でした。いつも頭ごなしの母。私は母から愛されているという感覚がありませんでした。

それから20年近く経って、母のがんを知らされたわけですが、命にかかわる病気だと言われても、母に歩み寄ろうという気持ちにはなれませんでした。人生の大半を衝突ばかりしてきた母と、今更理解しあおうだなんて、簡単にいくはずがありません。それに、がんを告知されたといっても、「本当?」と疑いたくなるくらい母は元気でした。誰に対しても上から目線の母は担当医に対しても強気な発言を続け、積極的に抗がん剤治療に取り組み、「がんなんてやっつけてやる」と鼻息荒くして、周りを驚かせていたほどだったのです。

しかし、そんな母も1年ほど経つと様子が変わってきました。がんが腎臓に転移し、抗がん剤治療が続けられないかもしれない、さらに腎臓から尿を人工的に出すため、腎ろうといって、腎臓からチューブを皮膚表面に出すようにつけなければならないと言われた頃でした。それまで何でも「自分が中心」で私を振り回していた母が、私がちょっと怒ると、私に気をつかったり、私の気分をうかがうようになったのです。以前なら言い返していたのに……。その変化に最初は驚いていたのですが、やがて、「あぁ、母も精一杯だったんだ」と気づいたのです。それまで強気だったのも精一杯の虚勢で、本心はがんに怯えていたのでしょう。この頃から、私の中で、少しずつ母のことを理解しようという気持ちが出てきたように思います。