欧州統合は、アメリカにとってもメリットがありました。ソ連の共産主義の脅威が欧州全体に及びそうになっていたからです。1947年、トルーマン米大統領は世界規模で共産主義を封じ込める「トルーマン・ドクトリン」を出し、その後すぐに、マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン(欧州復興計画)」を発表しました。

そのマーシャル・プランが結実したのが、52年に誕生したECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)です。これに参加したフランス、西独、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6カ国は、「EUの原加盟国」です。ここにイギリスの名はありません。イギリスは国家主権が束縛されるのを嫌って参加しなかったのです。

英独仏の思惑により集合離散の変遷が

ECSCは、石炭を産出するドイツのルール工業地帯を共同で管理するものです。ドイツは、異を唱えることもできたでしょう。しかし、欧州統合を優先させました。57年にはECSC加盟6カ国の間でローマ条約が調印され、翌年、EEC(欧州経済共同体)が発足しました。条約には、(1)関税同盟の結成、(2)人、サービスおよび資本移動の自由化、(3)共通農業政策(CAP)などの目標が掲げられました。

一方、イギリスは対抗するように、60年、自らの主導でEFTA(欧州自由貿易連合)を発足させました。加盟国はイギリスのほか、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、スイス、オーストリア、ポルトガルの7カ国。ただ、EECが経済領域だけでなく、政治・外交を含む幅広い共通化を目指したのに対し、EFTAはあくまでも経済・貿易面の共通化に限りました。これがイギリスの基本姿勢なのです。

67年には、ECSC、EEC、EURATOM(欧州原子力共同体)の三機関が併合し、EC(欧州共同体)に再編されます。すると73年、イギリスはEFTAを脱退し、ECに加盟しました。理由は「EC市場の経済的魅力が、より高まったから」でした。