国際線進出を準備、やんちゃさの原点
1955年7月、薩摩半島南端の、開聞岳から近い鹿児島県笠沙町(現・南さつま市)に生まれる。父は小学校の教師で、校長や伊集院町の教育長も務めた。母も教師で、職場で知り合って結婚。2人とも健在だ。その長男に生まれ、弟と妹の3人きょうだい。1歳のときに鹿児島市へ転居し、東京へ出て東大へ進むまで暮らした。
中学と高校は私立ラ・サール学園で、高校2年の夏休みに、鹿児島の放送局の試験に合格し、西独で1カ月すごした。生まれて初めて飛行機に乗り、羽田からアンカレジ経由でハンブルクへ。3カ所で、県内の高校生15人が1人か2人ずつに分かれ、民泊した。ドイツの若者たちの進んだ考え方に触れ、大いに刺激を受ける。このとき知った「外国」が、DNAのように自分の内に残る。就職で航空会社を受けたのには、この経験があったからかもしれない。
79年春に東大法学部を卒業して全日空に入社。初任地の大阪支店に5年いて、本社の経営企画部国際課へ異動した。2年後の国際線進出へ向け、準備をする部署だった。仕事は面白かったが、社内のムードは冷たい。当時は国内線で圧倒的なシェアを持ち、「なぜ、国際線に出るのか」との声に、覆われていた。
でも、まだバブル経済にはなっていなかったが、グローバル化の走りはあった。翌年には、大幅な円高・ドル安を生む「プラザ合意」も発表された。「必ず、国際線が収益の柱になる時代がくる」。ここでも社内の少数派ではあったが、「以天下觀天下」は始まっていた。86年3月3日、国際線第一便が成田からグアムへ飛び立った。
2015年4月、持ち株会社のANAホールディングスの社長に就任。副社長時代に提唱し、着手した経営戦略の策定を急がせる。国内市場が人口減少で縮小するなか、世界中に路線を拡大していくとして、どこへ飛ばすべきか。幹部候補生たちに考えさせる。
今年1月下旬、社内に示した2020年度までのグループ中期経営戦略には、様々な思いを込めた。おっとりとして仲がいいのは結構だが、もう少し緊張感や挑戦する気持ちがほしい。それには、すべてのスピードを上げ、上司らを追い抜いていくくらいの「やんちゃさ」や「気概」があっていい、と明記した。
新たな成長の原動力には、ITや他業種との連携など、航空以外の分野への挑戦も謳った。手始めに「デジタル・デザイン・ラボ」という組織を新設。社内公募で参加を呼びかけると、まだ漠然とした状態にもかかわらず、約20人が手を上げた。そのうち3人に発令し、1人は米国のシリコンバレーに常駐させる。
後日、「うちにはドローンもないのか?」と声をかけたら、すぐに買ってきた。ドローンはまだ発展途上だが、2年もたてば、すごく小さくて、音もしないものが出る、と読んでいる。ここにも「天下を觀る」目が欠かせない。
世界の航空各社が新規投資に慎重ななか、ANAは挑戦し続けるDNAを発揮する。それが、経営戦略のメッセージだ。
1955年、鹿児島県生まれ。79年東京大学法学部卒業、全日本空輸入社。2004年人事部長。07年執行役員、09年取締役執行役員、11年常務、12年専務。13年持株会社制を導入し、全日本空輸は「ANAホールディングス」としてスタート、同代表取締役副社長執行役員。15年より現職。