運転支援のあるべき形
2点目の問題は、テスラが運転支援システムのレベルを向上させるにあたって、“思想性”をないがしろにしてきたことだ。
現状の運転支援技術において、加速(アクセル)と制動(ブレーキによる減速、停止)の自動化は、各社はすでにかなりの水準まで来ている。メーカーによって違いがあるのは操舵、つまりハンドルの自動化だ。大別すれば、最終介入型ハンドル(基本的な操作はドライバーに任せ、居眠りや脇見などのドライバーのエラーによって車線を逸脱しそうになった時だけ介入する)と、自立型ハンドル(常に自立的に車線の中央をキープして走る)に分かれている。ハンドルから手を離してOKと言っているメーカーはないのだが、両者はかなり意味が異なる。
なぜなら、自立型ハンドルの場合、アクセル、ブレーキ、ハンドルの3つの主要システムを全て自動化するが、その状態でドライバーに安全運行管理をせよというのは無理があるからだ。3つの操作を全てクルマに任せ、緊張感が一切無い状態で管理にだけ注意力を発揮することができるのかという点がひとつ。もう一点は緊急時のシステムからドライバーへの引き継ぎの問題だ。アクセルの自動化は、事故回避のために緊急操作するケース自体があまりないので問題は少ない。ブレーキも、そもそも通常の運転ではアクセルから踏み換えて操作するものなので、システムから人間が引き継ぐ時に違和感がない。しかしハンドルは、継続的に操作してクルマの動きと操作量の関係を把握しておくのが基本のインターフェースだ。それを突然緊急時に引き継いだら、相当の違和感があるはずだ。
運転支援の場合、システムに任せた方が安全になる操作と、システムに任せたら危険が増大する操作を明確に区別せずシステムを構築することは望ましくない。ここは極めて思想性が高い部分だ。運転支援の目的が、人が安楽を決め込むことなのか、ヒューマンエラーを排除して交通事故による死傷者を減らすことなのかによって、システムに任せるべき操作の範囲が変わってくるからだ。
運転の自動化技術をアピールしてきたテスラが、「より安全を高めるためにはどうすべきか」を十分に考えていたのかは疑問である。今回の事故は、自動運転が、“自動車事故で人が死なない世界の実現”を目指すべきであることを教えている。