ひたすら敵の弱みに焦点を合わせた戦略眼

司馬懿は、劉備の死後に諸葛亮が起こした北伐(魏への侵攻)でも、たびたび蜀軍の計画を瓦解させています。最後の五丈原の戦いで、弟に手紙で前線の様子を聞かれて、司馬懿は次のように返事をしています。

「諸葛亮というやつ、志は遠大だが機を見るに敏とはいえぬ。知謀はめぐらすが決断力がない。兵法好きだが融通がきかぬ。十万の兵を率いてはいても、すでにわが薬籠中のもので、大勝利まちがいなし」(書籍『正史三国志英傑伝II』より)

軍師というより政治家だった諸葛亮は、大戦略を描くことは得意でも、戦況がめまぐるしく変わる戦場で、一瞬のチャンスを逃さず攻めることは苦手でした。司馬懿は孔明の弱点を的確に見抜き、持久戦に持ち込みます。諸葛亮は司馬懿の戦い方になすすべもなく、最後は諸葛亮の病没で両者の戦いは幕を閉じることになりました。

237年(孔明の死去から3年)、遼東太守である公孫淵が魏に対して反乱を起こします。公孫淵が燕王を称して独立を宣言。魏の2代目皇帝曹叡は、司馬懿に討伐を命じます。

公孫淵は、首都から離れた遼水の対岸に大軍を布陣し、司馬懿の軍勢を迎え撃つため、長い塹壕を作り防衛軍を駐屯させます。陣の堅い守りを見た司馬懿は、隙をついて敵の船を焼き払うだけでその陣を通過して、敵の首都である襄平へ進軍をしてしまいます。

「敵は堅陣をしいて、わが軍の疲れを待っている。しゃむに攻めては、みすみす敵の術中にはまることになる。昔の人も“どんな堅陣をしいて専守防衛につとめても、そのツボを攻めたら、敵は出てきて戦わざるを得なくなる”と語っているではないか」

「いま、敵の大軍は遼水の防衛陣地に集結している。本拠地の襄平にはいくらの兵力も残っていまい。本拠地を叩けば、敵はあわてて後を追って戦いを挑んでくる。そのときが、殲滅するチャンスだ」(いずれも書籍『司馬仲達』より)

目論見が外れた防衛軍は、家族のいる首都に魏軍が進むのをみて慌てます。準備した城を捨てて、急いで魏軍を追いかけますが、司馬懿は待ち構えていて三戦三勝と(有利だったはずの)公孫淵軍を圧倒。野戦では勝てないと考えた敵軍は、襄平城に逃げ込み籠城します。