自分の子の短所しか言えない親の特徴3

1.子育てのプレッシャーを必要以上に感じてしまう親

 今、私の姪が赤ちゃんの子育てに追われているが、わが子が眠っているだけなのに「息をしているか」が心配でベビーベッドを覗き込む日々らしい。

以前、育児雑誌の編集者と話をしていて「今のお母さんは『熱っぽいなと思ったら、医者に連れて行きましょう』という表現ではダメで『37度3分を超えたら医者に連れて行きましょう』というような具体的指摘が要るんです」ということを言われたことがある。

両方の気持ちがわかる。

私自身が子どもふたりを授かり、孤軍奮闘の中、日々「死なさない」というだけで必死だったのだ。

子どもが少し大きくなると、このミッションに加え「ちゃんとした子」にしなければならないというプレッシャーできつかった。

外出先で騒いで他人様から母である私が白い目で見られないか?
ちゃんと挨拶ができる子にしなければ、母である私がそしりを受けるのではないか?

もちろん、わが子のための当然の躾の部分も入っているのだが、いつも顔の見えない誰かの圧力を感じることが多く「母である私がきちんとしないと!」という漠然とした怯えがあったように思うのだ。

そのうちに子どもは学齢期に達する。

学校というところの評価は(これは面白いことに介護の認定調査でも全く同じであるが)できるか、できないかという2択になることが多く、できないことは「悪」であると断じられ、多くの場合、母が叱責を受ける。

「九九がわかっていませんね(ご自宅でどうにかしてください)」
「忘れ物が多いですね(お母さまが気にして下さいね)」

大抵の母はその叱責を回避しようと子どもをドンドン追い詰める。

日本は成人した子の不祥事までもを親の責任と追及する空気があるが、子どもが誕生してから、少なくとも成人するまでは「わが子のできる・できない」が「親の通信簿」となって跳ね返ってきやすい。

「できない」ことに囚われすぎて「できる」ことは「当たり前」で処理しがちになるのだ。

私がわが子の思春期の子育てに悩んでいた頃、同じように悩んでいた友人にこう言われたことがある。

「子どもに人さまに迷惑をかけてはいけない! って口を酸っぱくして言ってきた。(成績不振で)先生に(親が)呼び出され『先生にまでご迷惑をおかけして嬉しいのか?』とも言った。でもね、思ったんだよね。人間ってさ、絶対、日々、誰かに迷惑かけながら生きてるじゃない? だったらさ『もう迷惑かけてもいいよ、迷惑をかけてでも(自由に)生きろ』って言ったら、今まで何をしても無気力だった息子に意欲が湧いてきたんだよね」

私たち親はいつもいつも「できる」を目指していったい、誰の評価が何のために欲しいのだろう。