霞ヶ関の役人が「監督」を目指した理由

そして今回、ご紹介したいのは、何と霞ヶ関の国家公務員から高校野球の監督に転じた不惑の人のことだ。

神奈川県央の北部に位置する相模原市。丹沢山系が望め、周囲には田畑が広がる場所に、県立相模田名高校はある。

平林明徳(48歳)が社会科の教諭として同校に赴任した1年目は前任の野球部の監督がいたため、部長などを務め、2年目から念願叶って正式に監督に就任、それから4年目の春を迎えている。

平林監督の人生は一本道ではない。

ちょっと驚きのキャリアは後述するが、大きなターニングポイントのひとつが39歳のときだった。

その年の夏に岐阜県の教員採用試験に受かった。翌年、初任地の高山工では監督がいたので高校野球には携われなかった。サッカー部の顧問などをしていたが、「ここでは監督になれそうもない」と神奈川の試験をあらためて受けなおした。それほど、「高校野球部監督」に魅力を感じていた。

平林監督の原点は地元、長野の高校野球だ。昭和43年早生まれの桑田・清原世代。自身は県立南安曇農高校で白球を追った(高校3年時の夏の県大会は1勝して、終了)。

上京して、外務省に行政職事務官として入省。霞ヶ関で働き始めたのがキャリアのスタートだ。外務省ではアジア局でカンボジア和平協議など大きな案件を裏で支えた。