井上は東大経済学部を卒業後、富士銀行(現みずほ銀行)に入行。支店の現場より本部の勤務が長く、大蔵省(現財務省)へ出向し、組合の仕事も務めた。1997年の山一証券の自主廃業の際には整理業務で重責を担う。00年代の銀行統合時には、関連会社の整理統合で手腕を発揮、筆頭常務に上り詰めた。それでいて人柄のよさは行内でも有名で、今もかつての部下たちが井上を囲む会を定期的に催す。

斎藤は極秘裏に井上と対面した。12年の秋から暮れにかけて3回、いずれも短い時間だったが、斎藤はこの人しかいないと確信した。

「とにかく性格が明るい。しかもスポーツマンで芸事にも通じている。すぐにレジャー産業に向いている人だとわかった」(斎藤)

まもなく斎藤は、井上に社長就任を打診すると、井上は二つ返事で受けた。

当時井上は62歳。サラリーマン人生は終わりに近づいていた。銀行では役員となり、有力子会社で4600人のトップも務めたことで、やることはやったという満足感もあった。ポストに執着して醜態を晒すようなことはしたくないと、みずほ情報総研の社長期間を全うしたら、潔く引退するつもりだった。その矢先に、東日本大震災が襲う。被害状況を目のあたりにした井上は、「この国難に際して自分に何ができるのか」と真剣に考えた。

まず、みずほ情報総研のトップとして、震災復興関連の研究とコンサルティングは採算度外視で受託する方針を打ち出す。被災者向け義援金の分配の仕組みづくりや、バイオ技術を生かした瓦礫の処理法などを研究し、自治体などにアドバイスした。

個人としても、「同じ日本人としてやれることがあればやろう」と心を決めていた。53歳からマラソンを始め、還暦を超えてもフルマラソンを完走するほどの体力を誇る井上は、まだまだ動ける自信があった。常磐興産のトップの話が舞い込んできたのは、ちょうどその頃だ。

斎藤の誘いを受けたとき、サラリーマン人生の最後は「世に貢献する」ことで締めようと決めた。

(文中敬称略)

常磐興産相談役 斎藤一彦
1945年、福島県いわき市生まれ。68年中央大学法学部卒業、常磐湯本温泉観光(現常磐興産)入社。94年ホテルハワイアンズ総支配人。2002年、代表取締役社長就任。11年、東日本大震災で大被害を受け休業を余儀なくされるも、翌年2月に全面再開させる。13年会長、15年相談役。
 
常磐興産代表取締役社長 井上直美
1950年、東京都生まれ。74年東京大学経済学部を卒業、富士銀行(現みずほ銀行)入行。2005年同行常務執行役員、07年同常務取締役、08年みずほ情報総研専務取締役、10年同社長就任。13年、常磐興産に顧問として入社、同年6月同社代表取締役社長就任。
(榊 智朗=撮影)
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