「人を見ることをアドバイスしてほしい」

【塩田】長く小沢さんと行動をともにしてきましたが、きっかけは。

【平野】私は若い頃、共産党に入りかかった。それを見て、郷里の大先輩で、吉田茂元首相や側近だった林譲治さん(官房長官や副総理、衆議院議長を歴任)が、政治の実態を見るという仕事を、と衆議院事務局への就職を世話してくれました。そのときの監視役が小沢さんの父親の小沢佐重喜さん(建設相や運輸相を歴任)でした。吉田さんと林さんにすごく信頼されていました。

小沢さん自身とは、あの人が大学院の学生からそのまま衆議院議員に初当選したとき、相談を受けたのが始まりです。「司法試験の勉強をやっていて、親父が亡くなり、こうなった。社会に出ていないから、人を見る目がない。だから、人を見ることをアドバイスしてほしい」と言いました。20歳代で、立派なもんです。

【塩田】小沢さんは自民党時代から「将来の首相候補」と言われ、実際に海部俊樹首相の後任選びの場面では、本人がその気になれば、首相到達のチャンスでした。自民党離党後も、紆余曲折を経て、民主党代表時代の08~09年頃は「首相目前」と見られたのに、政権に届かず、結局、民主党離党後は小政党に甘んじています。小沢さんは自分で本当に首相をやりたいという気持ちを持っていたのでしょうか。

【平野】それがないから困るんです。彼は幹事長みたいなナンバーツーで上を支えることでエネルギーが出る。「士は己を信じる者のために死す」タイプです。

ですが、1回だけあった。麻生太郎内閣時代、リーマンショックの直前で、景気が非常に不安定だった。麻生首相が公明党とうまくいっていなかった。その頃、私は創価学会から相談を受けていろいろとやっていましたが、小沢さんから「一度、飯を食いたい」と言われ、出向きました。「この次、選挙したら、いよいよ民主党政権だな」と言った。陸山会問題が起こる7~8ヵ月前です。

【塩田】民主党が政権を握った後、10年の夏、菅直人首相のときに代表選に出ました。小沢さんはあのとき、菅さんに代わって首相となるつもりだったのでは。

【平野】無論、そうです。ただ、首相を1回やらなければと決めたのは、麻生内閣のときです。その気持ちが残っていたわけですよ。

【塩田】小沢さんは現在、衆参合わせてわずか5議員の党のトップですが。

【平野】この間も、小沢さんの支援者の人たちに「あんたら、何しているんだ」と散々、怒られた。私は、このままではいかんということで、小沢政治塾の15周年の記念のスピーチで「遺言として言っておく」と言ってしゃべりました。今は敗北しているわけですが、小沢さんを先頭に、われわれがやろうとした日本改革の原点は何だったか、それがなぜこうなったのか、みんな知らないんです。よく調べたら、保守本流から出発して資本主義のあり方の改革を目指した。それがどうあるべきなのか、展望した本を出そうということで作業を進めています。私が小沢さんといろいろやり合った日記など、記録的なものを持っているから、そこから抽出して、さらに小沢さんから私が話を聞いてまとめました。8月に出版の予定でしたが、安保法制を参院で潰せる状況を見ているところです。

小沢さんは今、日本人の政治文化を指摘しています。対米従属という心理状態です。集団的自衛権の問題もそれに尽きます。戦後70年の対米従属は、戦前に置き換えれば、天皇陛下従属ではないかというわけです。「長いものには巻かれろ」とか、「非自立」「仕方がないシンドローム」を直さなければならない。政治体制をよくするには、文化改革的なものが必要と小沢さんは言っています。政治改革、選挙制度改革、国会改革などに挑んできましたが、われわれは根本の理由付けを説明しなかった。国民運動として、これを訴え続けていこうと言っています。

当面の問題としては、来年の参院選です。考えていることはみんな同じではないから、一つの党になることはありませんが、野党が協力して選挙共闘体制をつくるのがいいでしょう。当面、その環境整備をやっていこうという話でした。