超富裕層の子がエリートになりその他99%は労働者になる

旧帝大をはじめとする国立大学は、そうした「国家須要(しゅよう)の人材」、エリートを育てることを目的につくられたものでした。だから、文化芸術から政治経済まで幅広い人文系の教養が求められた。国公立大学から「文系」をなくすという文科省の「通達」は、「国内の大学ではエリートをつくらない」ということを含意しています。

「次世代を担う成熟した市民の育成」を放棄した国に未来がないことは誰の目にも明らかです。しかし、「それでいい」というのが大学の「株主」たる財界の意向です。彼らにとって重要なのは国の未来よりも自社の利益・株主の利益です。彼らは四半期タームでの収益や株価だけに興味があり、「国家百年の計」は一顧だにしない。

彼らが当面必要としているのは、「グローバル人材」という名の、能力が高く、安い賃金で体を壊すまで働いてくれて、いくらでも「換えがいる」労働者たちです。大学はそのような人間を育成し、格付けする機関であればいい。「グローバル人材」として使い捨てにされるのがいやなら、「使い捨てをする側」になるしかない。けれども、そのキャリアパスはきわめて狭いものになりつつあります。

かつては、どれほど貧しい家庭の子供でも、公立の小中高から国立大学に進み、そこから上場企業や中央官庁に入るという定型的なエリートコースがありました。かなり広々としたキャリアパスが出身階層と無関係に存在した。勉強さえできれば、そのキャリアパスは開けた。しかし、そのような牧歌的な時代は過去のものとなりつつあります。

すでに経済的に豊かでなければ東大にも入れないというデータが開示されていますが、それどころではない。いまや富裕層は子供たちを中等教育から海外に留学させ、ケンブリッジやハーバードなど海外の超一流大学に送るというコースを選択している。それだけの資産と文化資本を持った超富裕層の子供たちだけが、これから日本のエリート層を形成していくことになりかねない。

つまり、「人を使う側の人間」は富裕層内部で自家培養するから、残りの99%のみなさんは「使われる側の人間」として頑張ってくれ、と。にべもない言い方をすれば、それが今進められている大学改革のメッセージです。