学校教育の受益者は個人ではなく共同体なんだ

営利企業モデルでは、子供たちは「教育商品の買い手=教育サービスの受益者」とみなされます。でも、学校教育の最終的な受益者は教育を受ける個人ではありません。共同体全体です。まっとうな大人が育ってくれないと先行き社会が保たないからこそ公教育が存在する。金儲けのためにあるわけじゃない。

だからこそ、ヨーロッパの多くの国がそうであるように、教育は「無償」というのが本来の姿なのです。日本でも明治以来、国立大学を全国に設立し、学費を抑え、奨学金制度を充実させて、できるだけ多くの若者たちに就学機会を提供しようとしてきました。

それは勝ち残ったものだけが立身出世でき、自己資産を増やせるという生き残りレースに若者たちを投じるためではありません。彼らが日本の未来を託すことのできるような市民的成熟を果たすように支援するためです。教育がもたらす知識や技能は「商品」ではありません。それは本来共同体が若者に一方的に、無償で贈与すべきものです。

しかし、今、学校は教育「商品」の売り手であり、子供たちとその保護者は「消費者」として、授業料や学習努力という「代価」を支払ってそれを手に入れるというモデルで人々は教育をとらえています。商取引である以上、消費者たちは「最低の代価で、最高の商品」が手に入る機会を血眼になって探す。「賢い消費者」たるべく最大の努力を惜しまない。でも、それが「買い物」である以上、子供たちはいずれ「最低の学習努力で最高の商品を手に入れる方法」だけを考えるようになる。

学校が「商品」を売る店舗であるなら、人気のない学部・学科が淘汰(とうた)されるのは仕方がない。国立大学で教養学部が廃止され、今回また文系の教育が打ち切られようとしているのは、この学校教育への市場原理の導入の論理的帰結です。