言い訳も日本語の練習に
【川端】そういえば窪田君、算数はよく出来たけど、国語の成績はBとCばかりだったのよね。それなのに口が立つんですよ。理論が立つ。話しはじめると1時間でも話し続けるんじゃないかと思うくらいでした。日本語のボキャブラリーも豊富で朗々としゃべるんです。
例えば、よく宿題を忘れてきたんですよね。そうしたら、何故忘れたかという説明を延々と続けるの(笑)。しゃべらせることも日本語の勉強の一つだから、私も「はい。はい。ああ、そうなのね。わかりました」って聞くようにしてましたけどね。どこでこんなにボキャブラリーを覚えたのかと感心したものです。そんなやり取りを、周りにいるクラスの生徒たちは「また始まった」という感じで見ているんです。
【窪田】口から先に生まれたと言われるくらいおしゃべりだったことはよく覚えています。
【川端】いつも授業の後に職員と打合せをしてからバスに乗って帰るんですけど、必ずと言っていいほど窪田君が地元の子どもたちと遊んでいる姿を見かけたんです。宿題ができなかった理由を説明していたそばから遊んでましたからね。
ところで『極めるひとほどあきっぽい』にも書いていたけど、どうして新聞配達をしてたの? お母様もよく許してくれましたね。
【窪田】同じ学校に通う地元の子どもたちと仲良くなりたかったんです。比較的貧しい地域で、みんな家計を助けるために新聞配達をしたりお手伝いをしてたりだったんですよ。彼らと同じことをやれば近づけるような気がしたんですよね。毎朝4時に起きるのも辛く感じることはなかったし、やりがいを感じていたんですよね。父親に将来は新聞配達の仕事をするんだって言っていたくらい楽しんでましたし。
【川端】補習校の授業は土曜日にあって、日本人の子どもたちは授業の後は塾にいったりテニススクールにいったりするんですよね。私も家に帰ると別の地区の子どもたちを自宅で教えてましたし。私に子どもが生まれたときには、私が教えている間、お母様方が私の子どもの面倒をみていてくださって。それくらい教育熱心なご家庭が多かったんです。なのに、窪田君はアメリカ人の子どもたちと遊んでいて、他の日本人の子どもたちとは行動パターンが違っていたのが印象に残っています。
【窪田】親は振る舞いや言葉遣いといった躾には厳しかったんですけど、それ以外は比較的自由に育ててくれましたね。勉強が嫌いだと言えば、勉強しろとは言わないし。むしろ川端先生に何度も作文の書き直しをさせられたりしてみっちりと教え込んでもらえたことは、当時の自分には辛かった半面、嬉しかったのです。他の子どもたちは先生の厳しさに泣いてたかもしれませんけど、私は気をかけてくれることが嬉しかった。
【川端】1年目に教えた生徒と10年後に上野公園の西郷隆盛像の前で会いましょうという約束をしていたので、窪田君たちにも8年後、20歳になる年に上野公園に来て欲しいということを黒板に書いたんですよね。1987年4月1日、窪田君の年は2人、2年上の生徒たちは8人来てくれて。何とも落ち着いた青年になっていて、思慮深い言葉遣いや振る舞いに、8年の間にこんなに変わるものかと思ったものです。