山賀敦之(セコム・ラグビー部)

やまが・あつし●1974年、埼玉県生まれ。朝霞西高校でラグビーを始め、帝京大、セコムに進む。筋力トレーニングで鍛えたからだで、左プロップとして活躍。関東代表、日本A代表にも選ばれた。ラグビーマガジンの選手名鑑の「変顔」でラグビー界の人気者となった。現在はチームのスクラムコーチも兼務している。職場での肩書は、法人営業本部営業開発部三課の主務。

ラグビー界随一のエンターテイナーは健在である。もう40歳。「ザ・プロップ」の異名をとる山賀敦之は腰を痛め、「引退」の二文字もちらつき始めた。でも、まだ現役。

15日のトップイーストのセコム×東京ガス戦は“ドクターストップ”がかかり、雑用係を買って出た。駒沢陸上競技場。試合前、ファンの受け付けテントを張りながらも、笑顔を振りまく。決して落ち込むことはない。

「(つい間板)ヘルニアの神経障害がひどくて……。ふつうの私生活でも足がしびれることがあります。オペをやらないと治らないようなので、正直、厳しい状況です。引退? 検討中です」

悪いことは重なるもので、10月下旬、40度の高熱を出して、1週間、入院した。ノドの急性扁桃腺(へんとうせん)炎だった。ただ勤務先のセコム本社が渋谷・神宮前にあったこともあって、「まじめな話、デング熱かと思った」そうだ。

「病院で40歳の誕生日(10月30日)を迎えました。ええ、なかなかないことでしょ。これはやばい、厄年のせいだと思って、退院してすぐ、(神社に)厄払いをしたいって電話をかけました」

山賀はいたって真剣である。ひたいに大粒の汗をかきながら、手振り身振りで、自身の災難を説明するのだ。誠実で朗らかな性格で、誰からも愛される人気者。つらいストーリーなのに、なぜだろう、軽妙な語り口のせいか、こちらが愉快な気分になってしまう。

埼玉県出身。ラグビー一筋に生きてきた。帝京大ラグビー部では一番下の7番目のチームからレギュラーにはい上がり、セコムでもスクラムを支えてきた。スクラムが滅法強く、準日本代表の「日本A代表」に選ばれたこともある。172cm、105kg。ユーモラスな体型で、いつもぴちぴちのラグビーパンツをはいて試合をする。

ラグビー専門誌の選手名鑑では写真撮影にこだわり、花を耳にさしたり、妙な顔をつくったりの「変顔」で一世を風靡した。

つらい時も笑って、乗り越えてきた。好きなコトバを聞けば、「小学校3年生のとき、こんな標語をつくって、家の壁にずっとはっていました」という。どんなコトバを?

「“先生におこられても、くじけるな”って。ははは。ラグビーでも、仕事でも、ミスや失敗はいっぱいやります。でも、その日だけで忘れるというか、ひきずらないようにしています。バカなのかわからないけれど、僕は落ち込んだことはないです、ほんと」

今も忘れられない2009年2月10日、会社のラグビー部強化が中止された。特別待遇は消え、環境は厳しくなった。それでも、山賀はラグビー部を辞めなかった。ラグビーが大好きだったからである。

「その時は、“ふざけるなよ”と思ったけれど、今思うと、いい経験をさせてもらいました。環境が変わって、感謝の気持ちがより生まれました。何事も自分たちでやるようになりました」

珍しく、真顔になる。が、すぐにパッと笑って、「すごくいい糧になりました」とコトバを足した。2012年4月に結婚。モットーが「明るく元気に」なのだ。

「くよくよしたって、何も始まらない。ポジティブが一番です。朝、会社に行ったら、大きな声で“おはようございます”。電話に出たら、“はいっ! セコム営業の山賀です”って、明るく元気に言うのです」

どうして、どうして。ひょっとして、スクラムだけでなく、“山ちゃん”は人生の達人かもしれない。

(松瀬 学=撮影)
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