工藤公康(プロ野球ソフトバンクホークス新監督)
ぼくらの世代の“永遠のヒーロー”が、プロ野球のソフトバンクの新監督に就いた。日本一の連覇を目標に掲げ、故障をふせぐコンディショニング部門強化など、「工藤流」のチーム作りを打ち出した。
プロ野球の西武、ダイエー(現ソフトバンク)、巨人、横浜で29年間もピッチャーとして活躍した。3年前、48歳で引退。野球解説者として活動する傍ら、筑波大大学院人間総合科学研究科で「外科系スポーツ医学」を学んできた。
だからだろう、工藤新監督は会見で、こう言った。どんぐりマナコに選手たちへの愛情が満ちる。
「戦力が落ちていくチームにはけが人がおおかったり、主軸に思わぬアクシデントがあったりすることが多い。(選手にとって)一日でも長く、ユニホームを着るということは大事なことです」
いつでも、そうだ。工藤さんは野球選手のトレーニング方法やからだのケアを大事にしている。6月にインタビューした時も、自身の両手をぐいと広げて見せて、たしか、こう言った。「これ以上、伸びないのです」と。
左腕が完全に伸び切らない。少しばかりひじが曲がっていた。
「まっすぐからすると、20度ぐらいの角度ですかね。投げる機会が多かったので、ひじが壊れたのです」
愛知県豊明市出身。工藤さんは中学の時、左ひじを痛めた。治療院に通い、投球練習をやめて、ストレッチに専念した。半年ほどで痛みが消え、その時は左腕をまっすぐ伸ばせるようになった。
工藤さんは名古屋電気高(現・愛工大名電高)のエースとして甲子園で無安打無得点試合を記録するなど活躍し、プロ野球ではひじの痛みと戦いながら、西武、ダイエー、巨人で日本シリーズを制覇した。投手寿命が長かったのは、栄養学を学んだ妻の食事などでのサポート、規律ある生活、節制、猛トレーニングがあったからであろう。
ただ、どんなプロ野球人生でしたか? と聞けば、工藤さんはこう漏らしていた。
「苦しみの連続でした」
工藤さんは引退後、野球教室の指導も引き受け、「正しいトレーニング」の重要性なども伝えてきた。小学生を対象とした「ひじ肩検診」にも参加していた。けがをしにくい投球動作やストレッチングの指導にも取り組んできたのだった。こうも、言っていた。
「野球界にとって、野球をやってくれる子どもは宝なんですよ。彼らがやらなかったら、野球界はなくなる。けがをなくして、大人が子どもたちに夢を見させてあげないといけないです」
余談をいえば、工藤さんは義理人情の人である。1999年にFAで巨人移籍した際、残留を願う福岡のファン約15万人の残留嘆願の署名があつまった。移籍後、住所・指名がわかる人に対しては、自筆で礼状を書いたそうだ。「7年ぐらい」の月日を要したと、そっと教えてくれた。
ファンにとっての何よりの恩返しは、日本一連覇となる。15年ぶりに指揮官として福岡に帰ってきた工藤さんは、ファンに、子どもに、きっと夢を見させてくれるだろう。