海外赴任で感じたこと

そうした新しい分野を開拓できるという実績が認められたのかもしれない。84年にシンガポールに赴任することになった。初の海外勤務で、なおかつ現地のオフィスで日本人は私だけだった。トレーデングマネージャーとして中国とのビジネスを担当。午前7時半のベルを合図にはじまる同僚トレーダーとの情報交換の後、原油の委託加工といった契約を決めていく。その際、上司の指示などはなく、自由裁量で動けた。ただし、結果に対して責任は持たなければならない。

ここでも中国語の人脈が生かせた。最大の取引相手は中国の国営石油会社。もし、ゼロから人脈づくりをするとしたら大変だったろう。しかし、日本で培った人脈がある。北京に行って、彼らに会うと歓迎してくれる。競争相手はエッソやBPのようなメジャーだったが、中国は“人対人”で商売をする国だから取扱量や価格の交渉もうまくいった。

その後も、様々な局面で若い時代に築いた国際的な人的ネットワークが私を支えてくれた。今にして思えば、人脈こそが最大の財産である。ビジネスでは、どうしても目先の損得勘定優先になりがちである。また、どの出会いが将来的に良い結果をもたらすかは分からない。であれば、全ての出会いを大切にするしかない。若い時から、人との出会いや接点を大事にすることが、10年後20年後の財産となる。

シンガポールは働きやすい環境だった。権限が明確だったということに加え、スタッフの1人ひとりのクオリティがとても高いことも理由だったと思う。男性の多くはイギリスの大学を出ていて、少数精鋭で仕事をこなしていく。女性秘書も、私が口頭で伝えたディールの内容を10分もするとタイプしてくる。しかも、文章は私の英語よりずっと洗練されている。そんな人たちが月に3~4万円の給料で働いている。「この国は強くなるな」と感じずにはいられなかった。

私がシンガポールに着任したのは36歳のとき。妻、子供同伴で、現金などの財産はすべて持って行った。すぐに現地の足としてホンダの中古車を買い、好きなゴルフを楽しむためにクラブの会員権を手に入れた。これでほとんど手持ちのお金は遣ってしまったが、日常生活もローカルの人たちと同じにする。海外赴任が腰掛では無く、全精力を現地につぎ込むという姿勢を周囲にも自分自身にも示すためである。その姿勢が周囲から認められ、気持ちよく働くことができたといっていい。

香藤繁常(かとう・しげや)
1947年、広島県生まれ。県立広島観音高校、中央大学法学部卒。70年シェル石油(現昭和シェル石油)入社。2001年取締役。常務、専務を経て、06年代表取締役副会長。09年会長。13年3月よりグループCEO兼務。
(岡村繁雄=構成)
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