「無記」は、科学者としての僕の意識を解放してくれた。クオリアや偶有性(半ば規則的で、半ばランダムであることが混じり合っている状態)というおよそ答えの出そうもない難問を研究テーマに据えることができたのも、答えが重要なのではないと思えたからだ。大切なのは永遠に問い続けることなのだ。「無記」に出合って、僕の抱えていたストレスは雲散霧消してしまった。“コンプライアンス病”などと揶揄される現代の日本企業の行き詰まり感は、「無記」の対極の世界で起きている現象ではないかと僕は思っている。
本来、コンプライアンスというのはガイダンスであるはずだ。ところが現代の日本企業の多くは、個条書きにされたルールを金科玉条とし、それを杓子定規に墨守することに熱心になっている。こうした柔軟さを欠いた意識のありようこそ、日本企業の活力を殺いでいる最大の原因ではないかと僕は思う。
面白い研究がある。イギリスの歴史の教科書には複数の歴史解釈が書かれていて、諸説のうちどれを正しいと思うか自分で考えなさいというスタイルで授業が進行していくという。一方、日本も含めた東南アジアに多く見られるのが、教師や教科書が唯一の「正しい歴史」を教え、それを生徒に記憶させるという授業スタイルだ。この教育スタイルは、法律を慣習においてとらえる「慣習法」と、条文においてとらえる「大陸法」の伝統にそれぞれつながる。そして、前者のような教育を施している慣習法の国と後者のような大陸法の国を比較してみると、長い目で見て経済成長を継続しているのは明らかに前者だというのである。
答えがあると思い込まされ、誰かが決めた正解に最短距離で到達できた人間が優秀と見なされる社会と、正解がないことを前提として、自分なりにエビデンスを収集し、自分なりの考え方を周囲に問うていく社会では、学ぶことや生きることの楽しさがまるで違う。答えなんてなくていいのだと思えば、生きることが楽になり、そして、自力で生きようとする力が湧き上がってくる。
「記」は、判断をあらかじめ縛ってしまう。「無記」は思考を解き放ち、人を偶有性の海に放り込んでくれる。人間の自由は、そこにあるのだ。
脳科学者。1962年、東京都生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。理学博士。第4回小林秀雄賞を受賞した『脳と仮想』(新潮社)ほか、著書多数。