そんな状態にあった僕は「無記」という言葉に、魂をいきなりガツンと殴られたような衝撃を受けたのである。

「無記」とは、ブッダが死後の世界の存在やこの世がどのように成り立っているかといった根本的な問題について質問を受けたとき、それに対して一切答えない姿勢を貫いたという事実を指す言葉だ。

人間は自分の考えや夢を口にすると、それだけでかなりの満足を得てしまう。そんな人間の弱さを熟知していたブッダは、安易に答えることをせず黙々と自身の信じるところを実践してみせたのだ。

その生き方はいかにも峻厳だ。そして、「無記」を現代文明が抱える病理を抉る言葉として蘇生させた小林秀雄という人も、実に鋭い感性の持ち主だった。

僕は「無記」に出合ったことで、周囲からどのような誹りを受けようと黙って自分の信じるところを貫けばよいのだと思い定めた。「無記」の背後にあるブッダの「言葉にならない何か」が、科学者としての危機を乗り越える力を僕に与えてくれたのだ。

答えなどなくていいんだ

「無記」はまた、これとは異なる意味でも僕に救いをもたらしてくれた。

この言葉に出合うまでの僕は、答えは必ず見つかるものだと信じていた。この思い込みは、答えがわからないという苦しみを僕に与える一方で、答えがわかったと思えた瞬間、生きていることがひどくつまらなく思えてしまうという二重の苦しみで、僕を引き裂き続けていた。

しかしブッダは、「無記」という言葉を通して、人間にはわからないこともあるのだと僕に語りかけていた。

現代人は性急に答えを求め、答えさえ手に入れば安心して生きていけると信じている。これは現代文明の病だ。しかし、人間には答えを知りえないことがたくさんあり、知りえないからこそ探求したいと強く思うのだ。そして、自分なりのアプローチで答えを探し続けているこの宙ぶらりんの状態こそ、実は、「よく生きている」状態にほかならない。

裏返して言えば、生きることに答えなどあってはいけないのだと僕は思う。なぜなら、答えを知った瞬間に人間は生きる意味を失ってしまうからだ。それは、限りなく死に近い状態だ。死とは停止であり、問い続ける必要がなくなった人間は成長をやめて、停止してしまう。