顔ではなく印象を変え、敵を欺く「変装術」

映画やドラマの変装といえば、特殊メイクで顔そのものを作り変える大掛かりなものを想像しがちだ。しかし、現実のインテリジェンスの世界では、そのようなハリウッド的変装が使われる場面は意外なほど少ない。

なぜなら、工作員が変装を必要とするのは、敵の防諜機関に尾行されている最中など、一刻を争う状況であることが多いからだ。与えられる時間は、街角のトイレに駆け込んで出てくるまでの数分程度しかないこともある。

かつてCIAには、変装技術の開発で名を馳せたロバート・バロンという専門家がいた。映画業界の特殊メイク技術も研究しながら、現場のオフィサーたちに数多くの偽装ノウハウを提供した人物である(退職後は、その高度なシリコン技術を活かし、事故や病気で顔の一部を失った人々のためのリアルな義耳や義鼻を製作する医療分野で活躍している)。

だが皮肉なことに、変装のプロであるバロン自身が「顔を作り変えること」には限界があると理解していた。そこで彼が追求したのは、顔ではなく「印象」を変える技術だった。

眼鏡、帽子、歩き方…「小さな変化」が効く

現場で効果的とされるのは、意外にもごく小さな変化だ。元CIA職員らは、服装や髪形だけでなく、眼鏡や帽子を変えることでも、短時間で人物の印象を変えられると説明している。

落合浩太郎『面白すぎて時間を忘れる「スパイ」の世界』(三笠書房)
落合浩太郎『面白すぎて時間を忘れる「スパイ」の世界』(三笠書房)

さらに重要なのが、歩き方や姿勢の変更だ。防諜捜査官は顔だけを見ているわけではない。歩幅、肩の揺れ方、猫背の癖、腕の振り方といった身体の特徴も無意識に記憶している。

そのため、背筋を伸ばしたり、歩幅を変えたりするだけでも、印象は大きく変わるのだ。中には靴の中に小さな異物を入れ、意図的に歩き方を変えるといったテクニックも語られている。

こうした変装術の目的は、美しく化けることではない。周囲の景色に溶け込み、「さっき見たはずなのに思い出せない人」になることだ。

こうした人間は、俗に「グレーマン(Gray Man)」と呼ばれる。

誰の記憶にも残らない普通の人間になることこそ、最高の変装なのである。

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