「エビデンスはあるのか」への違和感

一人ひとりのかけがえのない経験――これを尊重する社会のありようのほうが望ましいのではないか。このような問題提起をした書籍として、現象学を専門とする村上靖彦による『客観性の落とし穴』が挙げられる(※1)。

村上は、社会のありとあらゆる局面においてエビデンスと呼ばれる数値や客観性が重視される状況に疑問を呈している。ただし、「とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知している」と述べているように、村上も決してエビデンスのありようそのものを全否定しているわけではない(※2)。

しかし、数字を妄信し、何かあればすぐに「エビデンスはあるのか」と他者を問い詰める人々が溢れる社会のありようが、本当に望ましいものなのかとの問いの背景には、個別性を消去し、数字やそれに基づく分析だけであらゆる物事を処理しようとする趨勢すうせいへの違和感があるのは間違いないだろう。

※1 村上(2023)
※2 村上(2023:12)

歩道橋を歩くぼやけた通勤者
写真=iStock.com/baona
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「エビデンス重視」と「個人の経験の軽視」

村上によれば、エビデンスを重視する社会がもたらすのは、個々人の経験の軽視である。数字で人々の活動や行動を測る時、必然的に人々の序列化が生じる。

その序列は大抵の場合、「生産性」や「どれだけお金を稼いだか」で決められる。この発想が行きつく先は、「役に立たない」とされる人々を抹殺することを肯定する「優生思想」に他ならない。エビデンスを妄信する社会の行き着く先をこのように描き出したうえで村上は、人々が能力主義に縛られ、競争を強いられている社会のありようを批判する。そして、数字への盲従ではなく、人々の経験や語りを重視することで、「一人ひとりの顔と声から出発して社会を作る」べきだと論じ、それをモデルにした制度を目指すべき姿として提示する。

この事例として村上が着目するのが、相互扶助を基盤としたケアが存在している、大阪の西成にしなりに代表されるようなコミュニティである。西成は、貧困をはじめとしたさまざまな困難を抱えている場所ではあるが、だからこそ、エビデンスだけでは把握することのできない、人々の豊かな実践が存在すると村上は論じる。このような「ケアのコミュニティ」は社会の片隅の至る所にあり、それらに社会を変える手がかりがあるのではないか。このような示唆しさを『客観性の落とし穴』は提示するのである。