大関看護婦会に金銭的余裕はなかった
大関看護婦会を再建するために、新たに家を借りて家財を揃えねばならないのだが、和には蓄えがほとんどなく、借金も多く抱えている。当時は15円程度で取引されていた電話加入権が唯一の財産で、無一文に近い状況だった。
大関看護婦会の創設当初は、有力者からの寄付などで現在の貨幣価値にして億の数字になる金が集まったといわれている。富裕な上客を多くかかえて実入りもよかったが、同時に出費もまた多かった。寄宿舎にはいつも大勢の内弟子がいて、その衣食住すべてを和が賄っていたという。また、困った者を見ると財布の有り金をすべて貸し与えて、返済を催促するようなこともしない。踏み倒されたことも多々あるが、まったく気にしていなかった。
和自身の金遣いも荒かった
本人の金遣いも荒く、近所にでかけるにも人力車を乗りまわす。夕食は尾頭付きの魚がないと気に入らない。お金に頓着しないというか、金銭感覚がおかしい。看護婦としての能力は凄かった反面、人としては欠落したところが多々あり。“普通に”暮らすのは難しいのかもしれない。
「金は天下のまわりもの」
それが口癖。富裕層のお得意様から高価な着物や装身具などを貰うことも多かったが、それらもすぐに質屋に入れて金を借りる。いくら借りたのか、本人もよく覚えていない。
中村屋の相馬愛蔵がバックアップ
そんな和を心配して支援の手を差しのべる者は多く、彼らの助力もあり大関看護婦会は本郷弓町に移転してなんとか再建することができた。なかでも最も手厚い支援の手を差しのべていたのが相馬愛蔵だった。彼は本郷のパン屋「中村屋」を買い取って商売を始め、日本初のクリームパンを販売して大ヒット。明治40年(1907)には新宿に喫茶室や食堂を併設した新店舗も完成し、実業家として名を馳せるようになっていた。和を尊敬してやまない愛蔵は、大関看護婦会が本郷弓町に転居してからも、お土産のクリームパンを大量に抱えて頻繁に訪問している。
昭和4年(1929)の暮れに脳溢血を起こして倒れてからは、ひとりで起きあがることが困難になっていた。同居する内弟子たちに世話されながらの寝たきり生活だったが、持ち前のポジティヴな言動や、天真爛漫なお嬢様気質は変わらない。愛蔵がいつも持ってくるクリームパンは大好物。内弟子たちと一緒に「美味いしいわね」と言いながら頰張り、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

