「火ヲ吐キツツ」突入し、帰らぬ人に

防衛研究所戦史研究センター史料室所蔵『山本元帥国葬関係綴』所収の1943年4月18日付緊急電「甲第一報」によれば、山本一行の編成は陸攻2機と直掩戦闘機6機だった。

一行は敵戦闘機十数機と遭遇した。山本の乗る「一番機」は「火ヲ吐キツツ」密林へ突入、宇垣纏参謀長の「二番機」は海上に不時着した。その後、二番機からは宇垣ら3人が救出されたが、一番機の搭乗者は全員が帰らぬ人となった。

空を舞う零戦
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米海軍省は同じ18日、「コミュニケ第348号」で爆撃機と零戦の撃墜を発表した。だが、そこに山本の名はなく、なぜ待ち伏せができたのかにも触れていない。米側は、この戦果がどこから得た情報によるものかを明かさなかったのである。

無視された海軍省内からの警告

敗因を暗号解読の成功だけに求めると、日本側の運用判断が抜け落ちる。待ち伏せを可能にしたのは、司令長官の移動時刻、経路、機種、護衛数という機微な情報を、傍受され得る無線で複数の宛先へ送った運用そのものである。

元軍令部通信課長を務めた鮫島素直の回想録『元軍令部通信課長の回想―日本海軍通信、電波関係活躍の跡』(「元軍令部通信課長の回想」刊行会、1981年)147頁によれば、軍令部とは別の部署である海軍省電信課長は、補給・整備・造修(艦船の建造・修理)に関わる電報が多量に発せられれば「企画暴露の起因」になると警告していた。

これは山本の視察日程を名指しした警告ではないが、通信量や電報運用が作戦企図を暴露し得るという認識が、海軍内部に存在したことを示す。それでも本件では、司令長官の詳細日程が無線で複数の宛先へ送られた。

しかも宛先は守備隊レベルの小部隊にまで及んだ。一般に、機微な情報を取り扱う部隊と担当者が増えるほど、情報保全上の接点も増える。詳細日程の一斉送信は、その接点を自ら広げる選択でもあった。