機種・護衛数から予備日まで“筒抜け”
ウェンガー講義録によれば、14日10時8分、真珠湾の通信情報部隊は傍受電文の断片訳を太平洋艦隊司令長官らに配布した。
発信から16時間13分後である。断片訳には「18日」「連合艦隊司令長官」「バラレ島」が現れ、配布電は暗号文を解く鍵となる加算乱数の復元が途中であると断りつつ、作業続行を告げていた。なお時刻は米海軍表記の「ゾーン・マイナス9」、すなわち東京時間で記されている。
15日4時10分と6時57分には、真珠湾とワシントンの通信情報部隊が、より完全な訳文を配布した。断片訳の配布から、前者は18時間2分後、後者は20時間49分後である。訳文を受け15日11時49分、太平洋艦隊司令長官は前線の任務部隊指揮官へ、山本本人が爆撃機に搭乗すること、戦闘機6機が護衛に就くこと、18日16時にカヒリ(ブインの飛行場)を離れること、悪天候なら19日に延期されることまでを伝えた。
米海軍大学校アーカイブが公開する太平洋艦隊司令部記録『ニミッツ・グレーブック』第3巻1509、1510頁によれば、4月14日(オアフ島基準)の欄には連合艦隊司令長官が18日にブイン地区を視察すると記され、16日の欄にはブイン地区を訪れる敵高級指揮官(山本を指す)の迎撃を試みるとある。
つまり、山本の動きは筒抜けであり、事前に迎撃態勢を組まれていたのである。
解読された情報が、そのまま作戦になった
真珠湾の通信情報部隊が読み解いた山本の日程は、報告書のなかにとどまらなかった。訳文が配られた3日後の18日朝、太平洋を隔てた前線の航空部隊に出撃命令が下った。
米ノーステキサス大学図書館が公開する米陸軍航空軍第13戦闘機司令部分遣隊の1943年4月18日付報告「戦闘機迎撃」によれば、P-38「ライトニング」戦闘機の部隊は「特別な情報」に基づき、護衛付き爆撃機の迎撃を命じられた。作戦を継続したのは、攻撃隊4機と援護隊12機の計16機(*1)。発進は現地時間7時25分、帰還は11時40分である(同報告の時刻は現地時間で、東京時間より2時間進む)。計画は綿密だった。
「戦闘機迎撃」報告の原文2頁によれば、P-38隊は連合軍が「カクタス」と呼んだガダルカナルから、410マイルの迂回海上航路を、高度10~30フィート(約3~9メートル)の超低空で飛んだ。ブーゲンビル島南西岸への到達は現地時間の9時35分、東京時間の7時35分と計算されていた。いずれも作戦当日の報告に記された数字である。
18日朝、山本機は日程電報の予定どおりにラバウルを発った。「戦闘機迎撃」報告は、計算した到達の時点でP-38隊が山本隊を発見したと記す。米軍が算出した時刻に、算出した空域へ、山本機はそのとおり現れたのである。
(*1)なお、機数は、数えた段階を区別する必要がある。米空軍大学の論考はP-38が18機発進したとし、米海軍歴史遺産司令部は迎撃地点に到達した機数を16機とする。同日付報告の「攻撃隊4機、援護隊12機、計16機」は、作戦を継続した編成を示す数字とみられる。本稿では以下、発進18機、迎撃地点到達16機と表記する。
